ラムダの祈り 1.賭けの始まり

 屈強な廷吏が二人、荘厳な法廷を進んでいった。二人の間には一人の少女がはさまれ連行されていた。
 どこか近くで、群衆がざわめいている。天井のリブ・ヴォールトは高く、聞きとれはしないが大勢の人の声らしきものをぼんやりと反響させていた。それはどこかしら不吉な響きがあった。
  ひどく広い法廷なのだが、光源は壁に取り付けた松明だけだった。白熱の炎ではなく、青白い鬼火が燃えている。等間隔で並ぶ鬼火は、厳かな法廷を海底のような薄青に染めていた。
 廷吏たちが連れているのは、七歳前後の少女だった。金髪を頭の左右で二本の三つ編みにしているが、その三つ編みがほつれている。身に着けている赤いスカートの裾が破れ、白いブラウスは裂け、その袖にも顔にも土汚れがこびりついていた。
 法廷の中心には、被告席があった。廷吏たちは少女をそこへ連れてくると、黙って引き下がった。
 少女の正面には裁判長の高座があった。その両側には陪審員が居並ぶのか、いくつもの席が設けられている。傍聴人の席は闇に沈んで、ざわめき声だけが高天井で反響していた。
「ラムダのベロニカ」
重々しい声が名を呼んだ。
「これより、ウルノーガ様に盾突いた罪を裁くこととする」
ベロニカと呼ばれた少女は、黙ったまま被告席に立っていた。
「おまえの罪は明白である。この法廷が定めるのは、罪の有無ではなく、量刑の如何である。己の刑を減じたいのであれば、釈明につとめることは許される。何か言うことはあるか」
ざわめく声が小さくなった。視線がいくつもベロニカに集中していた。
 ゆっくりベロニカは顔をあげた。強い目力で正面上方を見上げ、きっぱりと彼女は言った。
「とんだこけおどしね!」
 突然、すべてが消えうせた。魔界の法廷は天井も壁もなくなり、鬼火の灯る青い暗がりは輝くほどの光に満たされた。
 見渡す限り純白の世界だった。地平線に至るまで白い平面が続いている。それどころか、天の頂も雪を欺く白さであり、一定の間隔で光の輪が上からゆっくりと降りてきた。
 真っ白な世界にただ一つの異物があった。丸い天板のある小ぶりのテーブルである。その前に一人の男が足を組んで座っていた。
 黒地に暗赤色とくすんだ金の、黒い羽毛を飾った大きな襟、スラッシュ入りのパッフドスリーブの派手な、だが奇妙にシックな服の、長い金髪の男。魔軍司令ホメロスだった。
「これがおまえの好みか?」
皮肉っぽい口ぶりでホメロスはそう言った。
「ええ。清く明るい乙女らしくていいでしょ、鬱で陰気なおじさん風よりも?」
白一色の世界の中から、ベロニカが現れた。
 彼女は幼い少女の姿を脱し、うら若い乙女の姿をとっていた。青緑のスレンダーなアンダードレスの上に、鬱金色のガウンをまとっている。ガウンは紫紺の縁取りをつけ、裾にそってぐるりと菱形のような形の刺繍が入っていた。くびれたウェストには明るい紫のサッシュをしめ、ほっそりした首には真珠を連ねた首飾り。そして頭にはヴェールと、紫紺の縁取りのある青緑と鬱金の大神官帽を被っていた。ガウンの裾はフレアーで、彼女が膝のあたりを優雅につまみ、しずしずと歩くと、背後に長く裾を引いた。
 丸テーブルの前へやってくると、どこからともなく椅子が現れた。凝った背もたれのある白い椅子で、ホメロスの座っているものと同じだった。
 ホメロスが立ち上がり、その椅子を引いた。ベロニカは裾を引きながら、優雅に腰かけた。
「ありがとう。思ったより紳士ね」
 ホメロスが向かいの席へ戻った。チェスの選手権のように、二人は向かい合った。
「それで?」
とベロニカは言った。
「あたしを裁くですって?」
頬杖をついて相手の顔をのぞきこんだ。ベロニカの目がしたたかに輝いていた。
「魔王ウルノーガを甘く見るな」
ホメロスは言い放った。
「今のお前には還るべき命の大樹はない。冥土の入り口から奥へ進むことも出来ず、消えうせる運命なのだぞ」
「なんでもするわ、助けてちょうだい……なんて言うと思ってるの?」
十六歳の乙女は、若さからくる残酷さも露わに嘲笑した。
「リーズレットの言う通りアンタいい男だけど、でもバカよね」
「小娘の強がりも興ざめだな。話がすすまん」
 それほど苛立ったようすもなく、ホメロスがつぶやいた。
「率直に言おう。ラムダのベロニカよ、魔王の軍門に下れ」
言下にベロニカは拒絶した。
「いやよ」
 ホメロスは丸テーブルに片手の肘をつき、その手で自分の顎を支えてベロニカと視線を合わせた。
「おまえの妹に復讐したくはないか」
ベロニカが一瞬言葉に詰まった。その沈黙をどう受け取ったのか、ホメロスは言った。
「おまえは妹を妬み、憎んでいる」
ベロニカは一笑に付した。
「ふざけないでよ。あたしのどこにセーニャへの嫉妬があるというの?」
ホメロスは高い鼻の先からベロニカを見下した。
「自分の嫉妬心に気付いていないだけ、いや、気付かないふりをしているだけだ」
「お話にならないわね!」
 ホメロスは秀麗な顔に冷たい笑みを浮かべた。
「おまえの嫉妬を白日の下に晒してやろう」
ベロニカは腕を組んでにらみつけた。
「存在しない嫉妬を、どうやって?」
「強情な娘だ。だが正直言ってお前の魔力は惜しい。魔力だけは、な」
 ホメロスが丸テーブルの上を指さすと、そこに無骨な鉄色の頑丈な鎖が現れた。
「自分の嫉妬心を認めたら、おまえはこの鎖を首にかけ、我が軍門に下れ。新たな六軍王の一人となるのだ……そう、劫火軍王ベロニカとしておこうか」
ベロニカは腕を組んだまま魔軍司令を見上げた。
「たいした自信ね。いいわよ、やってごらん。でもできなかったら、アンタがその鎖を首にかけるのよ?」
「そのていどのリスクはあえて取ろう」
指で前髪をつまんで払いのけ、鷹揚にホメロスは言った。
 二人はほとんど同時に席を立った。
 白一色の世界が変質を始めた。突然足もとに石床が生まれてみるみるうちに広がり、世界は濃淡の磨いた石の市松模様となった。二人の間にあったテーブルの真下にぴしりと音を立ててひびが入った。ひびは亀裂になり、石床を割りながら長々と伸びていく。亀裂はやがてあぎとを広げ、小さなテーブルはその中に飲み込まれて見えなくなった。
 やがて亀裂の底から何かが生えてきた。石の柱が生まれ、二人の間へ突き上げた。石柱はすぐに形を変え、上部が膨らみ、左右へ腕が伸びていく。
 変質が終わった時、二人は楕円形の闘技場のような場所の両端の台座に立ち、睨みあっていた。両者の真ん中には大理石のような質感の巨大な天秤が生まれていた。巨大天秤の秤皿は、左右完全に釣り合っている。
 そしてなぜか、天秤の柱の中央に大きな楕円形の鏡があった。通常の姿見よりはるかに大きく、人の身長の数倍の丈がある。巨人が使うかのようなその鏡は、黒塗りの優雅な飾り枠で縁取り、鏡面は真珠色に反射していた。
 ベロニカは両手を前方へ出して念じた。ほどなくその手の中にベロニカ愛用の、先端に赤い魔石を飾った細身の両手杖が現れた。
「それじゃ、これは契約というわけね?」
魔法使い同士が契約と認め合った場合、破れば魔力的なペナルティが待っている。だがホメロスはひるむようすもなく、承知した、と言った。
「先攻は?」
ベロニカは肩をすくめた。
「証明するって言ったのはそっちよ?やってごらんなさいよ。あたしは後から反論するから」
「よかろう」
 ホメロスは秀麗な面に冷ややかな笑みを浮かべた。左手に魔軍司令の杖をかるく握り、右手を大きく広げた。
「お前たちは双子として生を受けた。それがすべての始まりだった」
左手にかるく握った魔軍司令の杖で鏡を指した。なにもなかった鏡面がゆらぎ、次第に腰の曲がった白鬚の年寄りの姿が映し出された。独特の神官帽、聖衣のその老人は、ラムダの里の長老ファナードの顔をしていた。
「ラムダの長老は言ったはずだ。おまえたちは賢者セニカの生まれ変わりであり、二人で一人の賢者、双賢の姉妹だ、と」
「ええ、その通り。何かおかしい?」
ホメロスの杖がすっと動いた。
「おかしいとも。お前の妹は十歳になるまで呪文を行使できなかった。呪文のつかえない賢者がいるか?」
石造りの巨大天秤は二人を見下ろすような場所に立っていた。その腕木の片方、ベロニカ側につりさげられた銀色の秤皿の上に、紫色の光が現れた。
 ホメロスはありあまる魔力を見せつけるように、巨大な鏡いっぱいに過去のできごとを繰り広げていた。今鏡の中にいるのはラムダ風の白いワンピースを着た二人の幼い少女で、ひとりは三つ編み、もうひとりはヘアバンドでとめた髪型だった。明らかにベロニカとセーニャだった。
「双賢の姉妹と言うが、明らかにお前の方が優勢だ。おまえもそう思っていたのだろう?」
「そんなことないわよ!」
「おまえが先行した時代は出生から十年以上続いた。子供にとってその歳月は長い。姉は天才で妹はグズと、周りの人々も、おまえたち姉妹自身も、頭に擦りこまれていく」
ホメロスが杖を閃かせた。鏡の中で、ラムダの子供たちがセーニャの周りではやしたてていた。やーい、ニセ賢者……。
「男子どもの言ってることをアンタ信じたの?バカじゃない?あたし最初から知ってたわ、セーニャの魔力が凄いってこと。そばにいると肌身で感じるの」 
「口では何とでも言えるな」
ホメロスはにやにや笑いを浮かべながら、首を振った。
「おまえたちが十歳になる直前、事件が起きる。その結果お前の妹はおのれの魔力の使い方を知った」
にやりと彼は笑った。
「見下していた妹に追いかけられる立場になるのは、どんな気分だったのだ?」
 ホメロスの口調はどこか教師めいていた。朗々と語るにつれて、ベロニカ側の秤皿の上の紫の鬼火は勢いよく燃えた。その勢いのためか、大天秤はわずかにベロニカの方へ傾いた。

 王の間の巨大な扉の鉄の取手が押し広げられていく。扉のすきまは次第に広がり、王の間の正面奥にある玉座が露わになった。
――はて、これは、誰の夢じゃろう?
 紫の絨毯を敷いた階段の先の壇上にある、一脚の豪華な椅子。背後には堂々たるタペストリが飾られている。赤の地に金の縁取り、中央に金の双頭の鷲。デルカダール王国の紋章だった。
 玉座のある壇の背後には金と白の柱頭飾りのある四基の柱があり、その上はアーケードとなっていた。柱頭と柱頭をつなぐのは淡い金の尖頭アーチである。アーケードの奥は方形の飾り彫りを入れた化粧壁となり、王国の紋章の両側に壁掛け布飾りを飾っていた。
 壇上左右で大きなかがり火が燃え、また天井から二基の燭台を下げて上等な白い蝋燭をいくつも燃やしている。広い室内の左右の壁には天地いっぱいのガラス窓があり、美しいタイル床に太陽光を投げかけていた。王の間は明るくて、同時に厳粛で、華やかでありながら剛健を志向する見事な宮廷だった。
 入り口から玉座まで幅の広い赤いじゅうたんを長く敷き、その両側に武装した兵士が恭しく控えていた。ほとんどの兵士は鎖帷子にサーコートをつけ、バーレルヘルメットを被り、手に三つ股の槍をつかんで直立不動を守っている。兵士たちが左右からじっと見守る中、彼は赤いじゅうたんを踏んで進んだ。
――この人物はデルカダール城の王の間にいるようじゃ。
 あと数歩で王の御前へ至ると思った時、それまで控えていた騎士が動いた。黒地の胸甲に金で王国の紋章を描いた豪華な鎧の騎士が、さっと左手を上げた。その瞬間、一斉に兵士たちが取り巻き、鋭い槍の穂先を向けた。黒い鎧の騎士は大剣を抜き放った。
 義憤に燃える眼で黒の騎士は彼をにらみすえ、低くうなるように叫んだ。
「まさかひとりで乗り込んでくるとはな……何をたくらんでいるか知らんが貴様の思い通りにはさせんぞ!勇者め!」
 その瞬間、悲鳴を上げてラムダの長老ファナードは跳び起きた。
「あれは、勇者さまか!」
十六年前ユグノアで行方不明になったと思われていた勇者さまが、生きておられた。
 が、危機が迫っている。今見た夢が現実となるのは、一年後か、ひと月後か、それとも、明日か、今日か!
 胸が苦しいほど鼓動が早い。いてもたってもいられずにファナードは起き上がった。身じまいをして夜明け前の大聖堂へ向かい、ろうそくに火をつけ、底冷えのする堂内に一人ひざをついた。
「命の大樹よ、勇者さまをお守りくだされ、どうか、どうか……」
そのまま日がのぼるまでファナードは祈り続けた。朝が来た時、ファナードの決意は固まっていた。
 ラムダの里の住人を、神官たちは里の中央の円形広場へ呼び集めた。大聖堂を背景に人々の前に立って、勇者は生きていた、だが、近い将来、捕らわれるはず、とファナードは告げた。
「勇者さまをお助けせねばなりませんぞ、皆の衆」
神語りの里の里人たちに迷いはなかった。ラムダの里は勇者を助けるために存在するのだから。
「勇者さまはどちらにおいででしょうか、長老さま」
と里人の一人が聞いた。
「デルカダールじゃ。わしの夢見に、赤地に金の双頭の鷲がはっきりと見えたでな」
それはデルカダールを意味するものとして有名な紋章だった。村人はざわめいた。
「そんなところに?」
「遠いな……」
「どうしてそんなことになるのやら」
「第一、なぜ、今の時代に勇者さまが誕生したのだろう」
と人々はささやきあった。
 ファナードは声を高めた。
「勇者誕生の理由はわしにもわからん。だからこそ、この里から人を出して勇者さまをお助けし、その使命を確かめるべく、命の大樹へお供するのじゃ。勇者の導き手を選びますぞ」
人々は期待に満ちた目で長老を見上げた。ファナードはこの時を待っていた。
「ベロニカとセーニャ、おいで」
 ざわめきの中、双子の姉妹は進み出た。現在、十六歳。背が伸びてすらりとした乙女になった。肩先を出した紫の縁取りの白い服に、体の前にエプロンのように下げた幅広の飾り布は、今でもおそろいだった。髪は二人とも長くのばしていて、ベロニカは二本の三つ編みに、セーニャは背中へ流してヘアバンドでおさえている。里一番の魔法の使い手、誰もが認める双賢の姉妹。その自信が二人を輝かせていた。
「わしは、おまえたちが勇者と共に大樹を目指す情景を予知夢に見た。夢は必ず現実となろう。さあ、勇者を探しておいで」
 嘆声とも悲鳴ともつかない声が広場に沸き上った。
「お、お、私の天使たちが」
二人の養父、ディルだった。
「長老さま、うちの娘たちはまだ子供なのです。どうしても旅に出さなくてはなりませんか」
養母のアニスも心配そうだった。
「里の外は、怖いところばかりですわ。もっと年上の強い人のほうがよろしいのでは」
ファナードは首を振った。
「知らぬわけではあるまい。ベロニカほどの魔力を持った里人はおらぬし、セーニャほどの癒し手もまずいない」
姉妹は顔を見合わせて微笑みあった。
 ファナードは、用意していた餞別を差し出した。
「セニカさまがお使いになった楽器なら、勇者さまを探す助けになるかもしれん。ベロニカには笛を、セーニャには竪琴を託そう」
二人が楽器を受け取ったのを見て、ファナードはさらに断言した。
「二人で力を合わせれば、賢者と同じ強さになるはず。この二人なら大丈夫じゃ」
「ええ、大丈夫ですとも」
とベロニカは言った。ラムダ一の天才は自信満々だった。
「お父さん、お母さん、あたし達を行かせて?きっとこうなるって、昔から思ってたの。ねえ、セーニャ」
セーニャは笑ってうなずいた。
「お姉さまが守ってくださるのですから、怖いものなんかありません。もしお姉さまが傷ついたら、その時は私が癒しますわ」
ディルは手で顔をおおった。アニスがその背をそっと撫でた。
「わかったよ、ベロニカ、セーニャ」
子煩悩な父親は、なんとか笑顔をつくった。
「勇者を導くためにおまえたちは生まれてきたのだろうね。笑って送り出そう」
双子の姉妹は互いの顔を見て微笑みあった。広い世界と一人の勇者が、彼女たちを待っているのだった。