クレイモランの白鳥 5.盾と双剣

 フラッグ係は丘の上からグレイグ隊の突撃を眺めていた。南の神殿から現れた漆黒の一団が真っ直ぐにモンスターの背後を衝き、駆け抜けて真横から再度食い破っていく。ほれぼれするような貫通力だった。
「すげえ、すげえ!」
軽装騎兵たちも丘へ登り、声を上げてはやしたてていた。
「さすがグレイグさま!」
「いつもいいところを持っていくよな、グレイグ隊」
「なに、グレイグ隊だってわかっているさ、“いいところ”を作りだしたのは、ホメロスさまだってことはな」
 フン、と誰かがつぶやいた。わざわざ見なくても、ホメロスだとわかった。
 ちょっとだけ、ホメロスは胸を張っていた。グレイグ隊の活躍を眺める横顔が、かすかに紅潮している。この人の性格上絶対に口にはしないだろうが、きっと嬉しいんだろうな、とフラッグ係の兵士は思った。
 ホメロスは向き直った。
「モリス、旗を」
本名を呼ばれてフラッグ係の若い兵士モリスは指示を聞きに近寄った。
「スパッツォ隊、ノッジ隊を集合させろ。撤収を開始する」
口調は冷静だが、どこか浮き浮きしていた。
「はい、ただちに!」
 モリスは集合を意味する旗を立て、ゆっくり振った。西の丘と東の森から旗で合図が返ってきた。
 目の前の戦場は壮大な土ぼこりと化していた。ようやくグレイグ隊が速度をゆるめ、重装騎兵は自分の槍を立てて天に向けた。そのままゆっくり北の丘のふもとへ進んできた。
 先頭はグレイグだった。馬を止めるやいなやその場に飛び降りた。戦闘のあとなので少し荒い呼吸をしているが、見たところ負傷はないようだった。
「ホメロス、ホメロス!」
 ホメロスは悠々と丘を降りてきた。
「将軍閣下には戦勝を慶賀申し上げる。なお敵の掃討には重装兵諸君の戦力を」
全部言い終わる前にホメロスは、がばっと抱きつかれてしまった。
「ホメロス、会いたかったんだ!」
グレイグは身を乗り出してホメロスの上半身を抱きしめ、幼子が母にするように顔をこすりつけた。
「放せ、大馬鹿もんが!」
怒ったホメロスが叫ぶのもまったく無視していた。
「おまえがキメラの翼を忘れたせいでこのていたらくだ!わかってるのか!」
「わかっている。でも、ちゃんと助けに来てくれたんだなっ」
「そう命令されたからだ!いいから放せ、痛いんだぞ!おまえ、部下たちの前で、というか人前で俺に甘ったれるな!」
気配りも優しさも人一倍持ち合わせているのに尊大な態度や高飛車な口調が先に立つ。モリスはホメロス隊の他の隊士と同じくこのツンデレな上官が好きだったし、尊敬もしていた。
「ホメロスさまのあんなお顔も珍しいな」
軽装騎兵が肩をすくめた。
「将軍閣下、幼なじみだからな」
ホメロスに堂々と甘え、デレを要求できるグレイグ将軍が少しうらやましかった。
 まったくです、と応じようとして、モリスは口をつぐんだ。さっと身を起こすとデルカコスタ平野を眺めまわした。
「どうした?」
「今何か動いた」
視界の隅で、異物がうごめいた。モリスは自分の視力に自信があった。
「ホメロスさま!」
モリスは声を上げた。
「何か、います!お気をつけて!」
グレイグはさっと手を放し振り返って身構えた。
 大砲斉射とグレイグ隊の巻き上げた埃が次第におさまってきた。そのなかに青い色合いが見えた。
 グレイグについてきた重装騎兵たちが緊張した。何人か槍をおろしてそちらへ向けた。
「んがああああぁぁぁぁぁーーーっ」
奇声をあげて、青い肌の一つ目巨人がその場に立ち上がった。

奪われた記憶その3

 夕暮れ近い空は暗く、ちらちらと降る雪だけが白く見えた。足もとの砂利の上で粉雪はすぐ溶けていく。だが、もう少ししたら積もり始めるのは明らかだった。
「ホメロス、もうやめなよ!」
制止の声に、気合が重なった。はぁっ、やぁっと声をあげて、一人の少年が木剣を一本の樹にたたきつけていた。
 十五歳のホメロスは、留学してきた当時よりかなり背が伸びて大人とおなじくらいになった。ずっと個人レッスンを続けてきたため、剣の扱いも習熟している。現に、敵兵に見立てた木に、右、左、斜め上、斜め下、と次々に攻撃を浴びせているが、なかなか力強い太刀筋だった。
「こんなことする時間があったら、勉強しなよ。明日は試験だよ?」
そう止めているのは、クレイモラン王立学院の制服を着た少年たちだった。ブラウスの上に白い縁取りのある黒い上着を重ね、その上から毛皮のマントをまきつけて寒さを防いでいる。
「“こんなこと”?!」
助走をつけて剣を振り上げ、木立に一撃をくわえながら、ホメロスが聞き返した。暑いのか、黒い上着はその場に放りだされていた。ブラウスとズボンだけの姿でホメロスは、激しく樹をたたきながら反論した。
「ぼくは!騎士になるんだ!剣ができなくてっ、どうする!」
クレイモランの王立学院では、ほとんど体育の授業は行われない。その代り宮廷式のダンスの時間があった。それに飽き足りない者は、ホメロスのように個人レッスンを受けるしかない。
「もったいないよ、ホメロス、君はそんなに頭がいいのに」
デルカダールの少年たちの目標は軍関係が多いが、クレイモランの子供たちは圧倒的に学者を志す。事実ホメロスのクラスの中で将来の目標を騎士と定めているのはホメロスだけだった。
 明日は大切な試験が予定されている。当然その日は誰もが一晩中でも勉強したいというのに、なぜかホメロス一人、突然木剣をひっさげて学院の裏庭へ行き、むちゃくちゃな勢いで剣を振りまわし始めたのだった。
 もう息が荒く、色白の頬が紅潮し、前髪が汗で額に張り付いている。眼を怒らせ、歯を食いしばって、ホメロスは擬闘を続けた。
「先生、エッケハルト先生!」
知らせを受けて学寮長が来たようだった。
「ホメロスを止めてください!」
 学寮長エッケハルトは裏庭に降りると、有無を言わせずにホメロスの手首を抑えた。
「どうしたんだね、いきなり?」
一瞬ホメロスは抗おうとしたが疲労困憊している体では無駄だった。
「あいつと、いっしょに、王国、一の、騎士になるって、約束して……それなのに」
はぁはぁと荒い息でホメロスがつぶやいた。
 エッケハルトはそっと木剣をとりあげた。
「“あいつ”とは?」
しばらくホメロスはうつむいたまま肩を上下させていた。
「グレイグです……ソルティコにいる」
エッケハルトは少年の肩をそっとたたいた。
「今日、君に手紙が来ていたね。グレイグ君とやらが、何か言ってきたのかな?」
きっとホメロスが顔を上げた。
「あいつ、進級したって、それで新しいクラスで模擬戦をやって先輩に勝ったって!ソルティコで剣術大会があってその予選に出るんです、あいつは強くなる、ずっと、ずっと……ぼくが、追いつけないくらい」
血を吐くような口調だった。子供らしい大きな目に涙をたたえ、興奮に赤くなった顔をしている。
 エッケハルトは、制服の黒い上着を拾い上げ、ホメロスの肩に羽織らせた。
「今は、焦るな、と言っても君の耳には入らないのだろうね」
片手で学院の生徒たちに、部屋へ戻りなさいと合図をした。ホメロスの同級生たちが部屋へ戻ったのを見て、エッケハルトは話しかけた。
「知っているかね、王のお話では、今の近衛兵のなかにはソルティコで修行した騎士がいるそうだよ?明日の試験が終わったら王にお願いして君に紹介してあげよう」
ホメロスの視線が揺らいだ。
「ほんとうですか?」
エッケハルトはうなずいた。
「だから、今夜はちゃんと明日の試験にそなえて勉強しておきなさい。そもそも力任せなんて君らしくないぞ、ホメロス。きちんとソルティコ流の剣術を指導してもらうといい。そうすれば君の友だちとの約束を破ることにはならない。だろう?」
ホメロスの呼吸が少し落ち着いて来た。
「ソルティコで指導者を務めるのは、怒れる剣神、かのジエーゴ殿だ。おお、ジエーゴ殿は左右にひと振りずつの剣を装備して戦う二刀流だと聞く。単純計算で敵に与えるダメージは倍になるはずだ。試してみたくはないかね」
ホメロスは上着の襟を片手でつかんで引き寄せた。涙交じりだった眼が、冷静さを取り戻してきた。
「はい、先生」
 エッケハルトは、ホメロスに木剣を返した。
「君を信用してこれは返すとしよう。だが、まっすぐ君の部屋帰るんだよ、いいね?」
ホメロスは制服の上着に袖を通し、寄宿舎へ戻っていった。
「いやはや」
そうつぶやいたのは、学院の教師の一人だった。
「ホメロス君のあんな顔ははじめて見ましたよ、いつも学年一位の優等生で余裕たっぷりにふるまうのに。嫉妬や競争心なんて知らないのかと思っていました」
エッケハルトは首を振った。
「逆だと思うね。嫉妬も競争心もたっぷりあるから、学年一位でいられるのだ、あの子は」
ほう、と教師はつぶやいた。
「かつての学院一の天才がおっしゃると、説得力がありますな」
エッケハルトは咳払いをした。
「彼については勉学に専念できる環境を与えるようにと、国王陛下からおおせつかっている。気をつけてやってほしい」
教師は了解のしるしにちょっと頭を下げた。この件は王へ報告しなくてはならない、とエッケハルトは思った。

 グレイグはとっさに叫んだ。
「みんな、下がれ!」
自分のうかつさに、グレイグは腹が立ってしかたがなかった。最初にデルカコスタ平野をモンスターが埋め尽くしていたのを見た時、大群の真ん中にひときわ抜きんでた存在があった。それを、今の今まで忘れていたとは!
「サイクロプスか」
とホメロスがつぶやいた。鎧の騎士たちと同じ悪魔系であり、人の身長の三倍ほどもある巨大なモンスターだった。
 モンスターには系統や生息地でいくつかの分類があるが、軍には軍による別の分類基準があった。すなわち、一体を殺すのにどれほどの人的資源が必要か。
 スライムやドラキーなら、成人が一人いればなんとかなる。びっくりサタンやドルイドは、戦闘訓練を受けた兵士一人で対処できる。さまよう鎧となると重装兵一人を必要とする。先ほどまで戦場に群がっていた鎧の騎士たちは重装兵三人に相当した。
「あれは、いかん!」
兵士の一人が、そう吐き出した。サイクロプスはあまりにも大きすぎて人的資源分類の埒外、白兵戦不可のクラスだった。なにせ、人の手が届く範囲はせいぜいサイクロプスの腰までなのだから。
「ホメロス、弓兵隊はどこだ!」
「たった今集合をかけたばかりだ。砲術長、大砲は使えるか!?」
ホメロスの問いを聞いていたかのように、サイクロプスはのしのし丘へ向かっていき、大木のような棍棒を伸ばした。砲兵たちが悲鳴を上げて四散した。サイクロプスは、8ポンド砲四門を勢いよく払いのけた。
 ちっ、とホメロスが舌打ちした。
「大砲はだめだ、騎馬突撃は!?」
「重装騎兵!」
グレイグが部下たちを集めようとした。が、サイクロプスの出現で馬の方がすでにパニックになっていた。
「グレイグさま、すみません、こいつ、怯えて」
騎兵は自分の馬が怯えて逃げようとするのを制御するだけで精一杯で、これでは槍先をそろえて突撃などとてもできない。
 足もとで右往左往するヒトを虫けらとでも思っているのか、サイクロプスは大口を開けて咆哮した。
「グ……リャ……レ、イグ……!」
「俺を探しているのか」
グレイグにもやっと合点がいった。デルカコスタ平野にモンスターが大量に現れたことそのものが、グレイグと、そしてホメロスを葬ろうとする意志の一環だった。
 ホメロスと視線が合った。グレイグはうなずいた。とにかく、このバケモノを部下たちから引き離さなくてはならない。ついさきほどまで乗っていた馬にグレイグは再度またがった。
「俺を始末したいなら、ついてこい!」
鞭をあてるまでもなく、馬は狂ったように走りだした。

 “緊急事態発生、集合急げ”を意味する旗を立てて、フラッグ係のモリスは振り回していた。東西の小隊が来さえすれば、ロングボウ部隊がサイクロプスをなんとかしてくれるはず。彼は必死だった。
「うちのボスたち、大丈夫か」
 平野の中央は先ほど重装騎兵たちが蹂躙したまま蹄で固められていた。どすん、どすんと音を立ててサイクロプスが迫っていく。グレイグは馬を降りて身構えた。
「あそこだよ。いくら強くても、将軍、度胸ありすぎだろう!」
グレイグは剣を抜き、挑発するように巨人を見上げた。
「俺がグレイグだ!」
 サイクロプスはでかい口でうれしそうに笑い、巨大な棍棒を振り下ろした。グレイグは大きく飛び下がった。
「スクルト!」
「グレイグさま、スカラできなかったか……?」
「見ろ、あそこっ!」
もう一組の人馬がサイクロプスを追ってきた。騎手は鞍からとびおりざま、サイクロプスの足もとに激しく斬りつけた。
「ぐぁおぁああっ!」
痛みというより怒りに駆られてサイクロプスが吼えた。一撃と同時に剣士は飛び下がる。低く身を沈め装甲で覆った足のかかとを地に滑らせれば、赤いマントの背で長い金髪が生き物のように踊った。
 丘に隠れて見ていたデルカダール兵から歓声があがった。
「ホメロスさまだ!」
「あの人、戦えんのか!」
と、新人らしい兵士が驚いてそう言った。数名がすぐに振り返った。
「おまえ、知らないのか?」
「そりゃグレイグさまには負けるが、あの人が我が軍の剣士No.2だぞ」
まじまじと新人は遠い戦場を眺めた。
「すいません、ホメロスさまって、てっきり頭脳派だと思ってました」
「頭脳派だぞ?でもいざとなったら、ああなる」
靴底が敏捷に地を蹴り、膝のバネが弾けてホメロスが飛び出した。双刀の剣先を斜め後ろ地に擦らんばかりに構えてサイクロプスへと迫る。グレイグのスクルトがかかっているはずだが、あまりにも無防備だった。
「しかも、攻撃特化タイプ」
 サイクロプスが再び棍棒を頭上へ振りかぶった。フラッグ係はじめ、ギャラリーから悲鳴があがった。
 ガン、と音を立てて棍棒は止まった。巨人の棍棒を下から支えたのはグレイグの大盾だった。その脇をまっすぐにホメロスが走る。サイクロプスのむきだしのすねを二度斬り払った。
「すげえ……」
 幼児のようにサイクロプスはわめいていた。モグラでも叩くように、手にした棍棒で地面を次々に叩きまわった。再び土ぼこりが舞い上がった。
「かかとのすぐ上を狙え、ホメロス」
とグレイグが指示した。
「簡単に言うな!」
棍棒の雨を避けながらホメロスが言い返した。
「攻撃なら俺が全部受けてやる。こいつも二足歩行だから、かかとの腱を断ち切れば立てなくなるはずだ!」
フン、とホメロスがつぶやいた。
「お前にしてはマシな考えだ」
一度バックステップで間合いを開け、双剣をひと息で逆手に持ち替えた。サイクロプスをにらみすえ、再度地を蹴って走りだした。
 サイクロプスは、空に向かってまたわめきたてた。しつこく足元につきまとうホメロスを捕まえたいらしく、地団太を踏むようにバタバタ動くが、棍棒もパンチもすべてグレイグが防いでしまう。その間ホメロスは飛燕のように立ち回り、確実に傷を広げていった。
 ホメロスの剣技は鮮やかだった。双剣はほとんど両手の延長であり、どうかすると鳥類の、尖端の細い両翼のようにも見えた。その翼をまっすぐにのばし、いきなり翻し、あるいは交差させ、ホメロスは自在に操る。少年時代から鍛錬を繰り返したため、左右の腕とそれを支える肩、背中の筋肉が、チェーンメイルの上からわかるほど発達していた。
 ホメロス自身、けして足を止めず、タッチアンドゴーを繰り返す。サイクロプスの足跡は、体液がにじんで青黒くなった。焦ったサイクロプスが奇声をあげた。
「おい、見ろよ」
デルカダール兵たちの中には指さして笑う者さえいた。
 ついにサイクロプスは棍棒を大きくふりかざし、目の前の地面へたたきつけた。
「ランドインパクト!」
丘にいてさえ、その地響きと揺れが伝わってきた。
「くっ!」
着地の瞬間を狙われてホメロスが体勢を崩した。大口を顔いっぱいに引いて、サイクロプスが邪悪な笑顔になった。巨大なてのひらを突きだしてホメロスを掴み上げようとした。
 さしものホメロスが青ざめた。あの手で握りしめられたら、背骨など折れて砕けるだろう。
 次の瞬間、サイクロプスは身をこわばらせ、天へ向かって吼えた。
「ぐぎゃっっっっ!!」
ボロボロになったアキレス腱に、グレイグが深々と剣を突きさしていた。ついにサイクロプスが両膝、両手を地に着け、うずくまった。
「立てるか、ホメロス!」
「……大丈夫だ」
ホメロスは立ち上がり、双剣を構えなおした。口元がひくひくと痙攣し、眼が吊り上っていた。
「きさま、よくも、この私を……グレイグ!」
「来い!」
 グレイグがその場に膝をつき、十指を組んで足場を作った。助走をつけて足場をホメロスが踏んだ瞬間、グレイグが頭上へ投げあげる。その勢いを借りてホメロスが跳んだ。四つん這いになったサイクロプスがぎょっとして目を見張った。双剣がその眼球を連続で斬りつける。その姿は不死鳥の舞いのように見えた。

 サイクロプスを屠ったあと、デルカダール軍はグレイグとホメロスのまわりに集合した。ようやくスパッツォ隊、ノッジ隊も合流した。重装歩兵たちは、ベルトラン一家と馬車を神殿の参道前までおろしたところだった。
「これでデルカダールへ戻れるな」
グレイグがそう言った。ホメロスは無言で乱れたマントを直していた。
「全隊、行軍陣形」
騎兵も歩兵も落ち着いたようすで隊形を整えている。負傷者も軽症で被害はほとんどなく、デルカダール軍の圧勝だった。
 ベルトラン一家の馬車が動き始めた。グレイグは自分の馬でそのそばへ行こうとした。
「ホメロスも来るといい」
ホメロスも騎乗していた。
「おかまいなく。将軍閣下はどうぞ」
 グレイグはしょんぼりした。
「なあ、機嫌を直してくれないか?今回のことは悪かったよ。俺が油断した」
つん、とホメロスは横を向いた。
「別に」
 グレイグは手綱を取って自分の馬をホメロスの馬に寄せた。
「もしかして、ユグノアの件でまだ怒ってるか?」
捨てられた子犬のような目でグレイグがそう尋ねた。
「まだ言うか!」
舌打ち交じりにホメロスが答えた。
「もし俺がユグノアに行っていたら、お前が俺の仕事をするはめになったのだぞ!ユグノアとデルカダール間の陸上海上ルートを確保して、我が王をはじめ全軍を無事に送り返すことがお前に出来たのか?」
グレイグはぽかんとした。
「――無理だ。何をどうすればいいのかさえ、わからん」
フン、とつぶやいてホメロスは肩をすくめた。
「そういうことだ。ユグノアの件はあれでよかったのだ。もう言うな」
あれでよかった、その一言で、グレイグの胸から負い目の氷塊が溶けて流れて消えた。
「ありがとう、ホメロス」
 馬上で腕組みしてホメロスは聞き返した。
「はっ、それだけか?他に言うことはないのか?」
子供の頃からよくこんなふうに問いただされていた気がする。そういう時は一番シンプルな答えをするに限る、とグレイグは思い出した。
「……ただいま」
小声でそう言って、上目遣いに彼を見上げた。
 珍しいことに、ホメロスが笑っていた。よく見る、口角をあげる皮肉な笑みではなく、ツリ目がちな目を細め、口元をほころばせ、彼は笑っていた。
「おかえり、グレイグ」
その表情に、昔知っていた、桃色の唇とつやつやした頬の愛らしい少年の顔が重なって見えた。
「ホメロス……」
一種の感動を覚えてグレイグはその姿を脳裏に焼き付けた。やがて時が流れ、世界が暗黒に沈んだ後、グレイグの心に幾度となくよみがえることになる、その笑顔だった。