グロッタ地底王国の冒険 3.第三話

 サマルは彼を見上げた。初めて会った時から、この北国の王位継承者は大人だった。実際十五歳ほど年上でもある。それを別にしても、クレイはいつも冷めた目をしていて、必死になったり半狂乱になったりするところを一度も見せなかった。
 そのクレイが唇を噛み、パズルのある壁に両手をつき、噛みつくような目でじっとマス目を見ていた。色白の顔に血の色がのぼっていた。
 あの、とサマルは声をかけた。
「作業仮説として、片方を『4』にしてみたら?」
「それで間違ったら、すべてやり直しだ!」
いつも柔らかくぼかす語尾が、斬りつけるようだった。クレイは壁に両掌をつけたままうつむき、首を振った。
「ごめん、サマル……少し落ち着いてみる。確認だ。まず『1』から……」
サマルの膝の上にはテオの頭部があり、上半身で荒い呼吸をしているのがわかった。小島の上ではゼフとロウ、ジエーゴが蜘蛛の体液で血みどろになっていた。
「クレイ、急いで!」
ロウが叫んだ。
「日が沈むよ」
サマルは上空を振り仰いだ。この地底の空洞に差し込む太陽光がはっきりと傾いていた。
 ギチギチギチと嫌な音が鳴り響いた。日没を喜んでいるのか、死蜘蛛どもがいっせいに顎を動かしているのだった。笑い声のようにも聞こえた。
「クソどもがっ」
ゼフの大剣がうなりをあげた。
「だめだ、わからな……!」
「モーゼフさん!」
クレイとサマルの声が重なった。大蜘蛛の一撃がゼフの利き腕を襲ったのだった。ゼフは重い両手剣をかまえていられずに片手にさげ、もう片方の手で前腕をかばった。指の間から鮮血があふれていた。
「王子!」
悲鳴のような声をあげてジエーゴがとんできた。ゼフにのしかかろうとする死蜘蛛を、ロウが蹴り飛ばした。
「みんな、落ち着け!」
響き渡った声は、ゼフ自身のものだった。
「あわてるな。クレイの気をそらすな。あいつに集中させてやれ。ジエーゴ、片手剣を片方貸してくれ。まだ戦える。俺は大丈夫だ」
サマルは思わずクレイを見上げた。
 クレイはなんともいいがたい顔で仲間たちを見ていた。そのままゆっくり壁のパズルに視線をもどした。名前を呼ぼうとしてサマルはためらった。うっかり声をかけられないほどクレイは集中していた。
 クレイの指が、パズルの1か所を指した。
「なんで気づかなかった……この区画、1から8までもう入ってるじゃないか。足りないのは9だけだ。一つだけあいているマス目が9だ」
頭に数字の9を彫ったピンがそのマス目に差し込まれた。
「ここが9なら、ここが決まる。それならここも、ここも」
早口でつぶやきながらクレイはてきぱきとピンを刺し始めた。彼の脳裏にはもう、1から9までの数字しかないのだろう。一行、一列を目でなぞり、瞬時に足りない数字を認識して周囲の区画から判断材料を探しだす。ひとつのヒントから次のヒントを得てパズルのマス目を刺していく。あっというまに81マスの大半が数字で埋まった。クレイの手の中のピンは、あと数本だけだった。
 日は傾ききっていた。地底の大空洞の半ばはもう、陰に埋もれて見えなくなった。蜘蛛の赤い目だけが光って見えた。
 ふとサマルは気付いた。ものすごい速さでパズルを解いていくクレイの姿が、青い陽炎に包まれている。
――ゾーンだ。
戦闘中でないにもかかわらず、とぎすまされた集中力によってクレイはゾーン入りしていた。黄昏の薄闇のなかでクレイの姿はますます輝きを増していた。暗くて見えないマス目さえ、指で何列めの何行めかをなぞってとらえ、確実にピンを刺していた。
「すべてのロジックの行きつくところによって……」
そうつぶやくと、クレイは最後の楔を一つだけ残った空白マスへ力を込めて差し込んだ。
「できた!」
その声と、ピーンという音が同時だった。細い針金を強く弾いたような音は、不思議なことに、風を呼んだ。いきなり巻き起こった風によってざわざわと湖岸の灌木が不穏な音を立てた。死蜘蛛の群れはいっせいに動きを止めた。
 パーティは誰からともなく、サマルとテオのいるところへ集まった。
「なにか、聞こえる」
緊張した顔でロウがつぶやいた。たしかに海鳴りのようなどよめきをサマルも感じた。それまで威勢のよかった蜘蛛の群れが、怯えたようにあとずさりを始めた。
「何が起こってるんだ……」
 ジエーゴが息を呑んで地底湖の湖面を指した。
「見てください、すごい波が来る!」
海鳴りをあげておそろしい大波が近づいてきた。
 サマルは目をこすった。
 湖の上を波に乗って、誰かがやってくる。白い服に青いマントと赤い神官帽をつけた年寄りのように見えた。その背後から護衛の兵士たちが忽然とあらわれた。
「生者じゃないみたい。あれは……」
杖を手にした白服の老人は兵をひきいて、大波の上をやってきた。その顔が黒くひからびて髑髏となり、目玉もなくなっていることに気付いてサマルはぞっとした。背後の兵士はみなアンデッドマンやスカルナイトだった。
「あれが……亡国の大臣、だ……」
テオだった。ようやく舌が回るていどには回復したらしい。サマルはテオの上半身を抱え上げた。
「大丈夫か?」
ゼフを始め心配そうな仲間たちに、テオはうなずいてみせた。
「声を、たてるな……」
いきなり気温が下がったような気がする。サマルたちはテオを中心にうずくまり、亡者の行進を見守った。
 亡者の一群はサマルたちに気付いていないようだった。穴だけのうつろな目でよろよろと進んできた。
“王ハ、報イヲ受ケタノジャ”
先頭のどくろ大臣がつぶやいた。
“ソウジャ、ソウジャ”
兵士だったらしい骨たちがそう応じた。
“民ヨリモ蜘蛛ヲ大事ニシタ罰ジャ”
“ソウジャ、ソウジャ”
“ワシノ娘ト孫モ、蜘蛛ニえきすヲ絞リトラレテ殺サレタワイ。不老不死ノ薬ジャト言ウテ”
“カエセ、カエセ、幼イ者ラヲ”
杖をふりあげ、どくろ大臣は乾いた笑い声をあげた。
“王ハ滅ビ、宝ガ再ビ世ニ出ル。ヨウヨウ、妄執モ晴レタワイ。サア、帰ルトスルカノ”
“帰ロウゾ、帰ロウゾ”
地底湖の大波が湖岸を洗い、ザバンと大きな音を立てた。小さな島の祭壇の上にも水はかかったが、さらわれるような大波は来なかった。
 ザバン、ドッパンと波の音が響く中、亡者の群れは現れたとき同じように、また消えていった。
「なんだったんだ、あれは」
ゼフがつぶやいた。
「よほどアラクネアの王を恨んでいたんでしょうか」
とサマルは答えた。
「気が、はれたようだった、な……」
とテオが答えた。
地底の湖には静寂が戻ってきていた。あの蜘蛛の群れは、大波に洗い流されてしまったらしい。あたりには一匹もいなかった。
「つまり、トラップの解除に成功したんですね!?」
そう言うと、クレイが肩をすくめた。
「まあね」
「やったー、さすがクレイ!」
 クレイは祠の前に立ち、水の引いた地底湖を指した。
「作ってから千年はたっていただろうに、今でも解除方法が有効で本当によかった。さあ、あれが脱出路じゃないかな?さっさと出よう」
水の抜けたあとに、湖岸にぽつりと大きなドアがあるのが見えた。

 サマルたち一行は、まだマヒの残るテオと負傷したゼフを支えて湖の中のドアから脱出した。ドアの中は両側に排水溝のある石畳の道だった。その道が尽きたころ、天然の洞くつが現れた。
「これがたぶん、アラクネア王がたどった避難所への正規ルートだな」
パーティはその一本道の洞くつをたどり、やがて道が広くなったところへ出た。上の方で人の声がした。
「おーい、誰かいるの?」
声を上げると、あらくれたちが数名降りてきた。
「どこからここへ入ったんだ?」
ひどく驚かれた。
「あ、あんた、議員さんの知り合いの……」
ロウの顔を知っている者がいて、すぐに休む場所と負傷の手当を手配してくれた。
「ありがとう、いやあ、助かったよ」
ロウは、人懐こい顔で聞いた。
「ところで、ここはどこ?」
「知らないで歩いてたんですかい?」
あらくれたちは聞き返した。
「グロッタですよ。みなさんは、これから孤児院をつくろうっていう工事現場の地下からお出ましになったんで、はい」
サマルたちはグロッタの宿屋に泊めてもらうことになった。テオとロウは宿屋の一室までグロッタ市議をやっているロウの乳兄弟を呼び寄せ、説明した。
「孤児院建設現場の地下だけど、なんとかした方がいいよ。直下にある洞くつをずっとたどっていくと、人食い蜘蛛の棲む地底湖につながってるんだ」
「おまけにどくろ大臣やアンデッドマン、もしかするとワイトキングなんかも地下道をうろついてるぞ」
市議はふるえあがった。
「ど、どうしましょう、そんな」
ロウは乳兄弟の肩をぽんとたたいた。
「蜘蛛の方は大部分洗い流したから、もうたくさんはいないかも。アンデッドのほうも恨みは晴れたみたい。そうだね、地下道は聖水をたっぷりまいてから埋め立てるといい」
「そうしましょう。ついでに孤児院には教会とくっつけて造っておきますよ」
 このときから約五十年後、その死蜘蛛の生き残りが巨大に成長し、地下道を縦横無尽に掘り進んで自分の王国を築くとは、このときのロウは知る由もなかった。

 宿の食事はおいしかったし、探索の成功祝いという名目で酒までついて、パーティはすっかりくつろいでいた。
「よく帰ってこられたよなあ」
テオのマヒはもうだいぶよくなっていた。
「ほんと、ほんと!」
そのたびに音を立ててグラスを触れ合わせた。
 グロッタの宿屋の食堂だった。一行は店の奥の大きめのテーブルを囲んでいた。
「あらためて礼を言うよ。クレイ、あんたのおかげで助かった。ありがとう」
真顔でテオが言った。
「これはご丁寧に」
クレイはまた、いつもと同じ、やんわりした態度にもどっていた。
「凄いですよ、クレイさん。最後の方なんか、神がかってましたもの」
サマルが言うと、クレイは薄く笑った。
「途中で取り乱したようだ。みっともないところを見せたね。サマディーの、どうか忘れておくれ?」
「みっともないなんて。とてもかっこよかったです」
「かわいいことを言うね」
 ロウが自分のグラスを取って、クレイのグラスに縁をカチンとあてた。
「ぼくはさ、あのてのパズルはめんどくさくて、すぐに正解を見たくなっちゃうんだ。よくできるよねえ」
クレイは微笑みを返した。
「そのめんどくさいところが好きなものでね」
「やっぱり頭がいいんだよ。ね、そう思うだろう?」
ロウが尋ねたのは、ずっと黙っていたゼフだった。
 ゼフはケガをした腕に回復魔法をかけてもらったうえで、さらに布を巻き付けて固定していた。
「……認める。あれは、俺にはできん」
ジエーゴがすん、とうなずいた。
「オレも苦手です。クレイさまがいてくださって本当によかった」
 クレイは軽く両手をあげて、何かさえぎるようなしぐさをした。
「今夜はまいったね。みんなどうしたんだい?私はそんなことより、テオが持ち出して来た古代王国の秘宝の方に興味があるんだけれど」
一斉に声があがった。テオが満を持したと言う顔で、古ぼけた木箱を持ち出したからだった。
「そう来なくちゃな。さ、トレジャーハンターの醍醐味といこう」
サマルたちはせっせとグラスや大皿を脇にのけてテーブルの上に場所をあけた。テオはその真ん中に木箱を置き、そっと箱の蓋の端をつまんで慎重に持ち上げた。
 ごく、と喉の鳴る音がいくつもおこった。箱の中に詰め物、その中にまた布。最後のそれをほどいたとき、一斉にためいきがもれた。
 それは鏡だった。金の真円の土台の上に波模様のある緑のエナメルをかけ、その内側に金縁、中央が丸い鏡面だった。エナメル部分にはめこんだ魔石といい、金縁に彫り込んだルーン文字といい、それはあきらかに魔力を持ったアイテムだった。
「これは……」
そっとテオは、鏡を取り上げ、表裏を確かめた。パーティはしげしげとその鏡に見入った。
「なんか、凄いオーラだね」
ロウがしみじみとつぶやいた。鏡の中には、目を見開いたロウの顔が映っていた。
「売ったらたいそうなお金になるのじゃないですか?」
浮き浮きとサマルが言った。
 意外なことにテオが唸り声をあげた。
「……まいった。ブツがすごすぎる。こりゃデルカダールの下町の何でも屋で引き取ってもらえるような品じゃねえや。れっきとした王国でもなけりゃ持ち切れないだろうよ」
 クレイが鏡をのぞきこんだ。
「もしかしたらこれが史上名高い『やたの鏡』かな?」
いや、とテオがつぶやいた。
「鏡の裏に妙な模様があるな。これ、歯車か?」
「歯車の模様?それはまた珍しい。クレイモランの学者や魔法使いなら、この鏡のために最後の1ゴールドまで差し出すよ。まったく地底にとんでもないものが眠ってたね」
「俺にはあまり値打ちがわからん」
当惑したようにゼフがつぶやいた。
「とりあえずツアーの終わりに五大国会議に提出すればよろしいのでは?」
とジエーゴが言った。
「グランドツアーで取得したものはそうすることになっていたはずですが」
テオがうなずいた。
「それがよさそうだ。これは割らないように注意して持ち歩くしかないな」

 ゼフは宿の自分の部屋の隅に愛用の鎧一式を置き、布の服だけになっていた。同室のジエーゴは、ゼフをベッドに座らせ、包帯をほどいて傷を見ていた。
「ひと晩は傷を固定していたほうがよろしいのでは?」
「……わかった。だが明日には取るぞ。剣を取る腕を自由に動かせないのは不快だ」
ジエーゴは新しい薬草をあてて包帯を巻きなおした。
 部屋の扉を叩く音がした。
「入れ」
とゼフが声をかけた。ジエーゴが立ってドアを開いた。そこにいたのは、クレイだった。
「夜分に失礼。少し話があってね。でも手当の途中なら外で待っているよ」
ちら、とジエーゴが視線をこちらへよこした。
 クレイの用件は見当がついた。おそらくあの鏡をクレイモランへ持っていきたいという相談だろうと思った。トレジャーハンター見習いどうしならともかく、ゼフとクレイの話し合いはデルカダールとクレイモランの二王国間の政治的駆け引きでもあった。
 ゼフはジエーゴに向かってかすかにうなずいてみせた。
「手当はこれでしまいです。オレは宿の帳場に、明日の朝食の時間について確認してきます」
クレイは目を細めて温和な笑顔をつくった。
「追い出したようで申し訳ないね」
「めっそうもない。失礼いたします、ごゆっくり」
そう言ってジエーゴは部屋を出て行った。
 クレイは宿の一室を見回して、ストールをベッドの前にもってくると、おもむろに腰かけた。
「なんの用だ?」
「欲しいものがあってね」
「やはりな。あれを手に入れられたのはおまえの功績だと俺は思っている。だから五大国会議のときはそう主張するつもりだが、この場でいきなりおまえに鏡を渡すことはできん。ルールというものがあるからな」
 何を思ったか、クレイは笑い出した。
「きみらしいねえ」
「何がそんなにおかしい?」
片手を口元に当てて笑いながらクレイは言った。
「私が欲しいと言ったのは、鏡じゃないよ」
ゼフは目を丸くした。
「じゃあ、いったい何を」
クレイは片手をベッドにつけて身を乗り出した。
「きみのミンネが欲しい」
は?とつぶやいたままゼフは硬直した。
 ミンネとは、おおまかに宮廷式恋愛を指す。貴婦人に向かって「ミンネを欲しい」と言うのは、シチュエーションによっておつきあいの申込、夜のお誘いから試合の応援や記念品のおねだりまでさまざまな意味を持った。
「お、おまえ」
ようやく絞り出した言葉はしどろもどろだった。
「いつもへらへらしている私が、きみにいいとこ見せたくてがんばったんだよ?認めてくれると言ったじゃないか」
「なにを言って……」
「かわいい騎士見習い殿にはちゃんと渡したのに、私にはなしかい?」
言いながらぐいぐい迫ってくる。
「ま、まて」
クレイは三歳年上で、年齢、身長ともにこの一行では最も上だった。ゼフはベッドの上で後ずさりをしたが、すぐ壁にぶち当たった。
「ジエーゴと張り合ってどうする、きさま、常識で考えろ!!」
「考えてるさ。たしか親愛の証明だったよねえ」
何か渡そうものなら、ロウと二人でからかうネタにするのは目に見えていた。だが片腕は動かない。従者はいない。ゼフの額に冷汗が浮いた。
「なっ、何をやればいいんだ!?」
くす、とクレイが笑顔になった。なんとも生き生きしていた。
「さ、何にしようかなあ?君のほうが私の心に踏み込んできたんだ、ちょっとやそっとのモノじゃ許さないよ?」
この男は敵に回してはいけない。そうゼフは肝に銘じた。