バード・オブ・パラダイス 2.カナリヤは歌を忘れ

 甲高い音をたてて木剣どうしがぶつかりあった。木製の刃が激しく擦りあう。十三歳のグレイグは柄を握りしめ、歯を食いしばって耐えた。
 顔に当たる風は潮の香りを含んでいる。南国ソルティコの海を見下ろす領主館の敷地内には、若い騎士見習いたちのための修行場があった。ソルティコの青い海を縁取る白砂の海岸は世界中の憧れと言われていたが、今のグレイグには見惚れる余裕もなかった。
「よう、どうした!」
「新入りがんばれ!」
 領主ジエーゴは門下生を多く抱え、また自身が剣の名手でもある。彼の主催する修行場は厳しいことで有名だった。
 グレイグと打ち合っていた相手は、いきなり自分の剣を下げた。勢い余ってグレイグが前のめりになる。その瞬間に手首を返し、相手は自分の木剣でグレイグの剣を絡め取って弾き飛ばした。
 修行場に敷き詰めた石畳へ木剣が落ち、からからと転がった。そのさまをグレイグは呆然と眺めていた。
「そこまで」
練習試合を見ていた師範代、カルロスがそう言った。
「拾って来い、グレイグ。それから、いくつか聞くことがある」
右手の手首をかばいながら、グレイグは練習試合用に与えられた木剣を取りに行った。まだ少年のグレイグの頭の中は、真っ白になっていた。
 少年たちを集めたグループを教えているカルロスは、二十代半ばの、物に動じない冷静な騎士だった。
「今の試合について、思うところを述べよ」
カルロスにそう言われて、戻ってきたグレイグはうつむいた。
――デルカダールじゃ、ずっと俺が勝ってたのに。全然歯が立たない。思い上がりだったのか……。
 グレイグがソルティコに到着したのは数日前、ページェントの日のことだった。その日はジエーゴ門下生の待遇で修行を開始した初日だった。
「どうした?」
「俺、ダメダメでした……へたっぴだった」
後ろからくすくすと笑う声がいくつも聞こえた。グレイグは真っ赤になった。
「それだけか?では、アルノー」
こほん、と咳払いの声がした。
「打ち込みが単調で、力で押し切るくせがついています」
アルノーはジエーゴ門下の一人で、カルロスが師範代として教えるグループに所属している。そしてたった今グレイグを負かした門下生だった。うむ、とカルロスがうなずいた。
「ニコラ?」
はい、と同じグループのニコラが答えた。
「守りが隙だらけだと思いました」
聞いているグレイグは、拳を握りしめた。
「落ち着け、グレイグ」
カルロスが声をかけた。
「おまえはまだ十三だ。技術はこれから身につければいい」
小さなざわめきが起こった。
「十三だと?」
「ずいぶんでかいな」
「十六、七かと思ったぞ」
「言われてみると童顔だな」
はは、とカルロスが笑った。
「ジエーゴさまのお話では、グレイグはバンデルフォンの生き残りだそうだ」
修行場が静まり返った。
「あの……俺……」
さきほどとは違う居心地の悪さに、グレイグはとまどった。
「“こいつは地獄を見てきた”と、デルカダールの国王陛下がおっしゃったそうだ。みんな、グレイグを甘く見ないほうがいいぞ」
カルロスが教えるグループは、グレイグを入れて六人ほどの少年たちだった。その中から低いざわめきが起こった。
「もう一度やってみよう。ヴィート」
指名された者が木剣を手に進み出た。
 グレイグも木剣を握りなおした。
「これを」
少し高い声が後ろでそう言った。手渡されたのは、軽めの皮の盾だった。装備しろということか、とグレイグは思い、持ち手に腕を通した。
 ヴィートの打ち込みは下から上がってきた。グレイグは盾で一撃を受け、盾の陰から反撃した。
「おう、やるな!」
「さきほどより、だいぶマシだ」
「ヴィート、手加減するな!」
ヴィートはアルノーより攻撃が浅めだった。なんとかグレイグはひと試合をしのぎ切った。そこまで、と声をかけられた時、グレイグは息があがっていた。
「盾を併用したほうが動きがいいな。おまえはそれでいくか」
はいっと答えると、カルロスは軽く手を振って下がらせた。
「次はゴンゾと、ゴリアテ、前へ」
ゆっくりグレイグは退いた。緊張がとけてくると、剣と盾の重さが腕にのしかかった。
 次の練習試合に出る二人が出てきた。一人は明るい髪の色をしたやや面長の少年、もう一人は、どう見ても子供だった。
 え?とつぶやいてグレイグは立ち止まった。ジエーゴ門下の騎士見習いたちが身に着ける白い縁取りのある青いコートを着た細身の男の子は、グレイグの視線に気付いて微笑みを向けた。
「盾はそこへ置いておいてよ。あとで片づけるから」
少年らしい高めの声に覚えがあった。さきほど盾を手渡してくれた人物らしかった。
「あ、これ、ありがとう」
ふふ、と少年は微笑んだ薄く笑った。色白の肌にすこし目じりがさがった大きな目、しなやかな黒髪の持ち主で、柔らかそうなほほと唇が印象的だった。
 すれ違った瞬間、花の香りが立ちのぼった。
 グレイグは息を呑んだ。
 卵型の白い顔に見覚えがあった。『導かれしネルセン』の舞台で、俺はこいつを見た、とグレイグは思った。あの華奢で謎めいた命の大樹の御使いにまちがいなかった。グレイグは自分の驚きをなんとか胸のうちにおさめてつぶやいた。
――男子だったのか。
少年は木剣を下げて練習試合の場所についた。彼は対戦相手に比べて、頭二つ分くらい小柄で、ほっそりしていた。そして装備している木の剣は、グレイグの使ったものよりかなり細く、軽そうだった。
「はじめ!」
カルロスと生徒たちはそのまま試合を眺めていた。
 このクラスは基本的に十四歳以下で中級の実力の弟子を集めているとグレイグは聞いていた。グレイグは十三だが、体格と身長だけなら他の門下生たちに引けを取らない。だが、青いコートの少年は一人だけ幼く見えた。たぶん十歳くらいなのではないか、とグレイグは思った。こんな子供に試合をさせて、本当に大丈夫なのか?
「ゴンゾ!打ち込んでいけ!」
大きいほうがゴンゾらしい。木の剣をふりかぶって鋭く打ち下ろした。少年はゴンゾの打ち込みに自分の剣を合わせるかと思いきや、すいと刃を引いてから木剣の峰を横から抑えた。
「むっ」
勢いを殺されたゴンゾが焦った。
「あははっ」
ボーイソプラノで笑い声をあげて少年はゴンゾの脇へまわりこみ、サーベルのように細い木剣を鋭く突き上げた。
 ぎょっとしてゴンゾが動きを止めた。少年の左手が剣を持つ右手をがっと抑えた。剣の切っ先はゴンゾの鼻の手前で寸止めになった。
「そこまで!」
カルロスが叫んだ。
「……すごい」
再度驚かされたグレイグは、知らずにそう口に出していた。
 カルロスがうなずいた。
「そうだな、グレイグ。他に気づいたことは?」
「見たことがないほど速いです。こんな剣術があるのかと思いました」
少年がグレイグの方を見た。前にホメロスが、巧みな剣術のことをなんと評していただろうか。
「……針の穴を通せるほど、速くて、巧みだ」
「うまいことを言うな」
とカルロスが言った。
「まさにその通りだ。力でまさる相手を速く巧みな剣でさばくのも、戦い方のひとつだ」
「とは言っても、一合すら合わせられんとはな」
ゴンゾはがっくりと肩を落とした。
「まともにゴンゾと打ち合ったら、こっちの剣が折れるよ」
明るく笑って少年が答えた。
「ぼくはまだ力では勝てないからね」
ゴンゾは首を振った。
「末恐ろしいな。大人になったら、どこまで伸びることか」
カルロスが遮った。
「それでいいんだ。ゴンゾ、剣だけではなく、相手全体を見るように。驚いたとき固まるのは悪いクセだぞ。それからゴリアテ」
少年は真面目な表情で師範代を見た。
「君の剣のスタイルは評価するが、小手先であしらえない相手がいつか現れる。やはり課題は体力と筋力をつけることだな」
わかりました、とゴリアテと言うらしい美少年は答えた。
 カルロスは次の組を呼びだそうとして、ためらった。
「あれはセザールさんか?」
領主館から誰かやってきた。眼鏡をかけた執事だった。
「坊ちゃま~、そろそろお召し替え下さい。お時間でございます」
「今行く!」
ゴリアテが答え、カルロスに一礼して歩きだした。
 グレイグが驚いたことに、カルロスと門下生たちは一斉に姿勢を正し、片手を胸につけて顎を引いた。
「えっ、あのっ」
隣にいたヴィートがささやいた。
「お前、まだ知らなかったか?」
「何をですか?」
門下生たちはにやにやした。
「ゴリアテさまは領主名代なのさ」
「父君のジエーゴさまがそうお決めになったのだ」
「それじゃ……」
グレイグの頭の中で、鷲鼻の威厳のある騎士ジエーゴと、神速の少年剣士ゴリアテがやっと重なった。カルロスがにやりとした。
「グレイグ、お前にさっき盾を渡したのは、未来のソルティコ騎士団団長だ」
三度グレイグは驚いて、華奢な少年の後姿を眺めた。ゴリアテの足がふと止まり、首を回してこちらを見た。くす、と微笑みの浮かぶ唇が少女のようにふっくらとして、美しい紅色だった。
 ゴリアテの母、亡くなったジエーゴ夫人が、バンデルフォンの名花と称えられた歌姫であったことをグレイグが聞いたのは、それからしばらく後のことだった。

 日がたつにつれ、グレイグは自分の修行にだんだんなじんできたし、いろいろと知識も増えた。まず、ジエーゴ門下の騎士見習いの若者たちはかなり数が多く、ジエーゴが直々に稽古をつけられるのは一か月に一度くらいだった。日常的には何人かの師範代が門下生をまとめて教えていた。弟子たちは剣術の他に馬術、水泳も含めた体術、騎士に必要な知識・教養等も学んでいた。
 ジエーゴの門下生たちは、年齢と実力で四つのクラスに分かれている。 カルロスも師範代の一人で、入門から十四歳までの少年たちである程度の実力のある六名ほどを預かっていた。ほとんどの子がすでに十四になっていて、グレイグとゴリアテのみ年下だった。
 自然、二人はまとまって行動することが多くなった。
 二人が歩いているのは、ジエーゴ邸のそばにある門下生の寄宿舎の廊下だった。廊下は中庭に面して解放されているのでかなり明るかった。グレイグたちは洗濯物の入った籠を抱えて井戸へ行くところだった。
 風通しのいい廊下に置かれた椅子に、杖を持った老人がゆったりと座ってた。
「こんにちは、ベネディクトさま!」
ゴリアテが声をかけると、ベネディクトと呼ばれた老人は温和な笑顔になった。
「おや、ジエーゴ殿の坊やじゃな。また大きくなったのう」
ゴリアテはグレイグの方を向いて、小声で説明してくれた。
「パパの兄弟子にあたる騎士さまなの。今は引退して寄宿舎の奥で暮らしてらっしゃるけど、よく遊んでもらったんだ」
ベネディクトはにこにこしていた。
「坊や、騎士道の誓いを言えるかな?」
はい!と言って、ゴリアテはまっすぐ立ち、すらすらと暗唱した。
「信念を決して曲げず、国に忠節を尽くす。弱きを助け、強きをくじく。どんな逆境にあっても、正々堂々と立ち向かう」
よしよし、とベネディクトは微笑んだ。
「まさしく騎士道、三の誓い……。真の騎士であるならば、いかなる時もこれらの誓いを忘れてはいかんのじゃ。そちらの大きな坊やもな。覚えておきなされよ?」
 ベネディクトに別れて歩きながら、グレイグはつぶやいた。
「ゴリアテ殿はすごいな。俺、まだおぼえてないや」
「ここにいたらすぐ覚えるさ。毎日聞くから」
ゴリアテは笑いながら首を振った。
「それから、『殿』いらないよ。みんなもそうでしょ?」
確かに年上の少年たちもゴリアテに対して日常的に敬語を使ったり若様扱いしたりしていなかった。
「いいんで……いいのか?」
うん、とうなずくとき、ゴリアテはかわいらしく首をかしげた。
「パパがそうしろってみんなに言ったんだし、ぼくもそれでいいよ。それに、アルノーたちは年上だけど、ぼくも先輩扱いしてないよ」
確かにゴリアテは年上の同輩に対してタメ口だった。もしゴリアテが「飛び級」という言葉を知っていたらそう表現していたかもしれない。
「……ずっとこのクラスで修行してきたのか?」
「剣だけね」
とゴリアテは言った。
「ぼくはまだ仔馬にしか乗れないし、体術の稽古もしてもらえない。身体が小さすぎるんだって」
グレイグはうなずいた。グレイグ自身、木の剣を与えられてホメロスと一緒に稽古を始めたのは十二歳くらいだった。
「もっと大きくなってからでもよかったんじゃないか?」
 クラス最年少とその次、という二人だが、身長は頭一つ分違う。門下生の制服はおそろいだった。グレイグの場合、成人の騎士たちとあまり変わりなく見えるが、同じ白い縁取りの青いコートでもゴリアテは、どう見ても “大人のまねをさせてもらって得意になっている男の子”だった。
「ぼくは早く騎士になりたいんだ」
「どうして?」
「ぼくが騎士になったら、家で留守番しなくてもよくなるじゃないか」
コートの裾を翻して、ゴリアテは両手を広げ、ぴょんと跳んだ。
「最初はパパの従者になって、パパが戦う時はぼくがお世話係としてついていく」
「従者って、召使兼見習いだろう?」
と、グレイグは聞いてみた。
「そうだよ。武器の手入れをしたり、馬の世話をしたりするの。第一、ぼくがいなきゃ、パパはだめなんだから」
無邪気な自信を見せてゴリアテはそう断言した。
「だめって?」
「ぼくがそばにいないと、パパったら全然笑わないで、黙って座ってるんだ。それでね、大きくなったらパパの手で騎士に取り立ててもらって、いっしょに戦場へ行くんだ」
なんとなくグレイグは理解した。グレイグにとってのデルカダール王が、ゴリアテにとってのジエーゴなのだろう。
「父上が好きなんだな、お前は」
ゴリアテは華やかな笑顔を見せた。
「うん!」
それから大きな目で、グレイグを見上げた。
「どうしてグレイグは騎士になることにしたの?」
 歩きながら回廊の柱を通り過ぎると、細長い影が二人の上に落ちる。中庭の奥にある馬場では蹄の音がしている。馬術訓練が行われているようで、独特の号令が聞こえていた。
「俺は、幼なじみと約束したんだ、二人でデルカダール一の騎士を目指すって。そうして王国と、王と、王女様を守るんだ」
ホメロス以外には話したことのない目標を、グレイグはつい口に出した。バカにすることもなく、熱心にゴリアテは聞いていた。
「……ずっと二人で練習してきた。デルカダールでは正式に軍に入るには十八歳以上でないとダメなんだ。去年王は、俺をソルティコへ、幼なじみをクレイモランへ遣わすことにしたと言った。それぞれ剣と、学問を学んで来いって」
ぐっとグレイグは拳を握った。
「これから五年、十八になるまでに、俺は剣と騎士の心得を身につけなければならないんだ」
あははっとゴリアテは軽やかに笑った。
「じゃ、まず、暗いところで一人で寝られるようにならないとね!」
「……言うな」
この年下の兄弟子には、いろいろと弱点を握られてしまっている。
「おまえはなんとなく俺の幼なじみに似ているな」
グレイグの脳裏には、いまごろクレイモランで勉強しているはずのホメロスの姿があった。
「そう?」
「顔ではなくて、雰囲気かな。あいつは俺より頭がよくて、なんでもできるやつなんだ」
ふふっとゴリアテは笑った。
「その子、大人から生意気だって言われない?」
グレイグはちょっと驚いた。
「よくわかるな!」
子供らしくない、かわいげがない、と陰口をたたかれていたのをグレイグは知っていたし、憤慨もしていた。が、当のホメロスは気にしているようなそぶりは見せなかった。
 中庭を巡る回廊は無人で、あたりにはだれもいなかった。グレイグは、つい口に出した。
「……ページェントを見たぞ」
ゴリアテは一度立ち止まり、そしてふりむいた。太い柱が少年の上に濃い影を落とした。『導かれしネルセン』の山車の“御使い”を演じた少年は、あの時と同じ、奇妙に艶やかな表情になった。
「やっぱりね」
暗がりの中、愛らしい顔立ちに皮肉な微笑みを彼は浮かべた。思わずグレイグは尋ねた。
「お前、自分が可愛いって知ってるんだな?」
「あたりまえじゃないか」
とまだ十歳のゴリアテはうそぶいた。
「来年もページェントに出るのか?」
 急にゴリアテは唇を噛み、ふいっと顔を背けた。
「出ない」
と短く答えた。
「なぜだ?御使いの役はお前に似合っていたのに」
それはグレイグの直感だった。大樹の御使いを演じていたときのゴリアテは、注目と称賛を浴びることを絶対楽しんでいたはずなのに。
「言ったでしょ。ぼくは騎士になるんだ」
柱の陰から出るとソルティコの眩しい日差しが少年の銀の瞳を煌めかせた。
「騎士たる者、あんなことは控えるべきだ。ぼくは、歌ったりしないよ。だからもう言わないで」
そう言って、そのまま先に立ってゴリアテは歩き出した。カナリヤが歌を忘れるために自らの羽をついばみ、まき散らしているようで、その後ろ姿はどこか傷ましかった。

 そんな話をしてから数か月がたった。だんだんとグレイグは、ゴリアテの立ち位置を理解してきた。剣の試合に関しては、間違いなく彼は神童だった。そして、教養を含めた座学でも年齢に見合わない理解をみせ、知識を習得していた。
 どうしてゴリアテを見る時にホメロスを連想するのか、グレイグにもわかってきた。ゴリアテは、口が達者でかわいげがないように見えることが多い。年長の少年たちにタメ口でぽんぽん文句をつける。大人にとっては小生意気に映りかねない態度だった。
 それでもゴリアテは嫉妬や憎悪の対象になっていなかった。
――かわいすぎるせいだ。
とグレイグは思っている。
 まだ十歳のゴリアテは馬術と体術の修行には参加できない。基礎体力づくりがせいぜいだった。グレイグを含め同級生たちといっしょに道場の掃除や寄宿舎用生活物資の買い出しをやるのだが、ゴリアテ一人へとへとになってしまう。
 それでも一般の門下生と同様に働くのはジエーゴの意志であり、ゴリアテ本人の希望でもあるとグレイグは聞いていた。
 その日、カルロスクラス全員で屋外の練習場を掃き清め、洗い流して大掃除をやった。始めたのが午後一番だったのだが、終わるころには日が傾きかけていた。掃除の最後に、門下生たちで集まってあぐらをかいてすわりこみ、練習用の木剣を一本ずつ乾いた布で磨いていた。正直数時間も中腰で作業をしていたので、座れるのはありがたかった。
「ゴリアテ。おい、ゴリアテ?」
 グレイグは自分の前に座っているゴリアテが動かなくなったことに気づいた。布を持つ手が止まり、上体が前傾していた。
「ゴリアテ!」
もう一度呼ぶと少年はくらりとこちらへ倒れてきた。あわてて木剣を手放してグレイグは彼を支えた。
「おい!」
ゴリアテを抱え込むかっこうになったグレイグは焦った。
「しっ」
とゴンゾが言った。
「坊ちゃん、寝てるよ」
「見ればわかるが」
「じゃ、起こすか?」
グレイグは困惑して腕の中を見下ろした。
 ゴリアテはすやすやと寝息をたてていた。黒髪が額にかかり、唇はわずかに開いて濡れたところが珊瑚色に輝き、薔薇色の顔に神聖なまでに無防備な表情を浮かべていた。
 グレイグは、揺り起こす代わりに、自分の胸でゴリアテの横顔を支えるように抱きなおした。黒髪から花の香りが立ちのぼった。
 アルノーがのぞきこんだ。
「つやつやほっぺだな」
他の同級生たちがにやにやしながら見に来た。
「あいかわらずだ」
「こうやってるとお人形みたいなんだが」
「おー、いい匂い」
一人が人さし指でゴリアテのほほをそっとつついた。
「柔らかいな!」
グレイグは声を潜めて言った。
「よせよ。起きるぞ」
「そう言うなって。同級生の特権だ」
頬や鼻筋に触れ、柔らかな髪を指で梳き、髪を束ねてうなじをさらし、唇をなぞり、耳たぶをつまむ。弄りまわされているゴリアテは、幼児がイヤイヤをするように顔をグレイグの胸にこすりつけた。同級生たちはだれからともなくため息をつき、息を詰めて花の香りのする神童を見守った。
 グレイグは、胸が痛いような気がしていた。自分の腕の中に、神のバランスが存在する。強い自負と完全な無防備がぎりぎりのところでつりあっている。こんな奇跡がこの世にあることが信じられない。その衝撃はほとんど痛みだった。
 背後で足音がしたのは、そのときだった。数名の大人が歩いて来た。先頭は、師範代のカルロスだった。
 カルロスは振り向いて、お休みのようです、と言った。
 後から現れたのは、執事を従えた威厳のある騎士だった。ソルティコのジエーゴは、息子を見下ろした。
「……そのねぼすけを、こっちへくんな」
伝法な口調でそう言って、腕を伸ばした。グレイグはそっとゴリアテを抱えてジエーゴに渡した。
「おめぇは、グレイグか。倅が世話をかけたな」
「いえ」
ゴリアテは父の腕の中で身じろぎし、半ば目を開いた。
「パパ?」
「おう」
ゴリアテは両手を父の首に回してしがみついた。幼児だったころより大きくなっていたが、ジエーゴは両腕で息子を軽々と支えた。ゴリアテは安心した顔でまた目を閉じた。
「しょうがねえやつだ」
息子の眠そうな笑顔をのぞきこんで、ジエーゴの目じりがわずかに下がり、口ひげが動いた。グレイグたちは目を丸くした。
――笑っておられるんだ。
口調はぶっきらぼうだが、一人息子に深い愛情をジエーゴが注いでいることは明白だった。そのままジエーゴは眠るゴリアテを連れ去ってしまった。
 グレイグたちは視線で話し合った。
「ジエーゴさまじゃ、しかたないか……」