バード・オブ・パラダイス 1.歌姫は花園に眠り

プロローグ ジエーゴ邸にて

 その騎士は、午後からジエーゴ邸で護衛任務につくことになっていた。
 ジエーゴ邸はソルティコの領主館でもあった。主人であるジエーゴは大けがをしてずっと意識が戻らなかったのだが、つい先ごろやっと回復してきた。この騎士を含め、ジエーゴを長とするソルティコ騎士団は、これで少しは希望が持てるだろうかと期待していた。
 悲しいほどに希望は乏しい。
 数か月前、命の大樹が地に落ちた。それは巨大な衝撃だった。大爆発が起きて、ロトゼタシア全土に燃える岩が降りそそいだのだから。それ以来、世界は不安と恐怖に満ちている。
 彼は首を振った。希望はないこともない。現にジエーゴは目覚めたし、今日はなんとデルカダールのグレイグを含む一行がジエーゴ邸を訪れているらしい。グレイグなら、彼も知っている。同じジエーゴを師とする同門の弟子だったのだ。
 師の元を離れてからのグレイグの活躍はめざましかった。実際十六年前にユグノア王国がモンスターの大群に攻め滅ぼされたとき、彼自身も戦場でグレイグに出会い、いろいろと助けられたことがある。グレイグは実力と思いやりを兼ね備えた立派な騎士だった。
 現在グレイグはデルカダールの将軍になっている。おそらくデルカダール王の命を帯びて、事態収拾を図るための訪問なのだろうと彼は思っていた。
――少しは明るいことがなくちゃな。
今、神聖な命の大樹の代わりに禍々しい暗黒の城がどんよりした空を支配している。そのためか瀟洒で華やかなリゾート地、ソルティコさえも、暗く静まり返っていた。
 復興も大事だが、それよりまず、あの暗黒の城の魔王をなんとかしなくては。そこまではわかっていても、誰が何を具体的にどうするかというと見当もつかないのだった。
――せめて、ソルティコの太陽がここに在れば。
 騎士はもう一度強く頭を振った。ないものねだりをしている場合ではなかった。騎士は服の襟をぴしっと引っ張った。騎士団員は詰襟筒袖の上着の上に、聖職者の祭服に似た、袖と脇縫いのない黄色い縁取りのある緑のコートを重ねてベルトで締めることになっていた。このスタイルは主人ジエーゴを師とする騎士見習いたちも共通だが、門下生のコートは白い縁取りのある青だった。
 今領主の警備を務めるということは、ソルティコ騎士団の顔であるにも等しい。騎士は槍を持ちなおし、気合を入れた。
 ちょうどそのとき屋敷の扉が開き、二人の男が中へ入ってきた。一人は紫の袖なしコートを着た若者、もう一人は何とも言えず派手派手しい姿の背の高い人物だった。
 太い縦縞の道化衣装だが、襟や裾に白いポンポンを山ほどつけている。のみならず、腰の後ろに巨大なピンク色の背追羽根をつけ、金縁の黒いヘルメットには水色の羽を飾っていた。
「お……おいっ何者だ、そこのハネの男!さてはくせ者か……!今すぐにこの邸から立ち去るがよい!」
槍を向けて騎士はそう命じた。主人のジエーゴは病み上がり、しかもデルカダールから賓客が来ている。怪しげな人物を通すつもりはなかった。
 羽の男は両手を腰に当て、何か面白がっているような顔でこちらを眺めた。衣装と同様、顔立ちも派手だと彼は思った。大きな目、長いまつ毛、柳の葉のような眉。そして大きめの口。その口がふふ、と笑いの形になった。
 派手な男は、気障な身振りで両手を広げた。
「……久しぶりね、ゴンザレス」
悠々と羽の男は言った。
「おくびょう者のあなたが屋敷の護衛役なんて、ずいぶん出世したじゃない」
その騎士、ゴンザレスは、眼を剥いた。
「むむっ、貴様……どうして私の名前を???」
くす、と羽の男は笑った。
 こいつ、何者だ、とゴンザレスは考えていた。かなりの長身で、いろいろとくっつけた飾りの下は剣を振るうために鍛えた身体つきだった。にもかかわらず、貴婦人めいた派手で気取ったしぐさがよく似合う。
 謎の男はかるく腰をひねって両手のひらをにぎりあわせ、ゴンザレスを見下ろした。
「相変わらずネズミは苦手なの?タワシと間違えてネズミをつかんだ時がいちばん傑作だったわね」
その瞬間、記憶の扉が開いた。ゴンザレスの脳裏に修行時代の思い出があふれかえった。つかんだタワシの異様な柔らかさ……、そして耳によみがえる声。
“ぼくの勝ちだよ、ゴンゾ!”
 ゴンザレスはじっと相手をみつめ、それから震えだした。
「…………!そ、そんな、まさか……」

第一話 歌姫は花園に眠り

 白いバラのアーチの下、小道は静かな薔薇園の中へ続いていた。順路の両脇には色鮮やかな薔薇が並ぶ。薄紅、淡黄、白藤等々、柔らかで品のいい色合いの華が見ごろを迎えていた。だが薔薇園には花を楽しむような人影はなかった。
 初老の園丁がひとり、庭仕事の道具を抱えて小道を進んだ。が、ふと足を止めた。
 順路の先で小道は、丸い花壇を一周していた。花壇には、まるで時計の文字盤のように縁に沿ってぐるりと白薔薇だけを植えてある。その中央に石碑があった。
 石碑の前に一人の男が座っていた。緑の芝草で整えられてはいるが、地べたである。そのうえにあぐらをかくように座り込み、猫背になってうつむき、じっと押し黙っていた。
 背の高い筋肉質の男だった。園丁は、事実彼がロトゼタシア一二の剣士であることを知っていた。そして、その男が無言で向き合っている石碑こそ、彼が愛した女の墓だということも。
「ガーベラ……」
遠くバンデルフォンから、大劇場の花形の座を捨てて彼女はやってきた。若い領主とその妻はソルティコを愛し、ソルティコに愛され、人生の夏の盛りを幸せのうちに過ごしていた。
 やがて領主夫人は男児を産んだ。そしてまもなく世を去った。
 その日から、ソルティコ領主ジエーゴの顔から笑みが消えた。他人にも自分にも等しく厳しいと噂されるようになった。
 ジエーゴは、たびたびこの薔薇園を訪れた。そして黙って墓石の前に座り込み、そのままじっと物思いにふけるのだった。その姿は武名を天下に轟かせる最強の騎士というより、運命に弄ばれて疲れきった男のように見えた。
 園丁は領主の悲しみを邪魔したいとは思わなかった。足音を忍ばせて後ずさりしたとき、何かがいきなり後ろから飛びだして、園丁とすれちがった。
「パパ!」
まだ幼い男の子だった。白いブラウスに黒い半ズボンの男児で、なんのためらいもなくジエーゴのもとへとんでいった。
 ぺたりとジエーゴの背にはりつくと、男の子は爪先立ってあごを父の肩に載せた。領主夫妻の一人息子、ゴリアテだった。
 ジエーゴは片手を上げて息子の側頭部をやさしく抑えた。
「セザールと来たのか」
「うん。パパ、おうちかえろ?」
ジエーゴは黙っていた。
「パパ」
ゴリアテは両手を父の首に巻き付けて、柔らかなほほを父の顔にこすりつけた。
「パぁパ……」
ああ、とジエーゴはつぶやいた。もう一度妻の墓を眺めると、ゆっくり立ち上がった。
「パパ、だっこ!」
両手をあげてせがむ幼い息子を、ジエーゴは軽々と抱き上げた。園丁は、自分の後ろに慎ましく立つ執事にやっと気付いて道をあけた。
 軽く目を伏せて待つ執事セザールの前を、小さなゴリアテを抱えたジエーゴが通り過ぎた。
「心配かけたな」
「めっそうもないことで……」
数歩さがってセザールがつき従った。
 まだ小さな手でゴリアテは父の肩にしがみついていた。ジエーゴは自分に残された宝、幼い息子を力強い腕で可能な限りやさしく抱いていた。強く結びついた父子と忠実な執事は、亡き領主夫人の薔薇園からゆっくり歩きだした。

 白い石で造られた家々の並ぶ通りは初夏の太陽を跳ね返して眩いほどだった。屋根や窓枠はソルティコ特有の深い青、ソルティコブルーで塗られ、花盛りのツル薔薇の紅や黄金が純白の壁を彩る。白亜のリゾート都市の目抜き通りは、紋章入りの旗やリボンでさらに華やかに飾り付けられていた。
 市民も観光客も通りの両側に鈴なりになっている。いやがうえにも高まる期待の中、大通りをしずしずと、豪華な山車が進んできた。
「来たぞー!」
誰かが叫ぶと、歓声が山車を迎えた。
 山車は馬車よりはるかに高く、にぎやかに彩色したパネルを車体に張り回し、天蓋をつけ、背景を描いた布を垂らしている。それは一種の移動舞台だった。
 演じられているのは、「ローシュ戦記」すなわち勇者ローシュの生涯の各場面だった。一場面に山車ひとつがあてられ、十数台もの山車が一列になってソルティコ市街を練り歩いてくるのだった。
「『ウラノスとローシュの盟約』だ!」
「今年のローシュは誰だ?」
「宿屋の若旦那だな」
「ウラノス役は道具屋の隠居か」
山車の上の舞台には、市民から名乗りを上げた素人役者が「ローシュ戦記」の人物の衣装を着け、場面になりきってポーズをつけている。青い勇者のころもとサークレットの若者と、緑のガウンと帽子の老人が腕を絡ませ、共に邪神を討とうと誓い合う絵を作っていた。
 山車が市内を移動している間は、役者たちはそのシーンをつくりながら、観客からの歓声にこたえて手を振ったりしていた。
 山車には下に車をつけ、馬ではなく人力で動かしている。山車を曳く人々も、山車の周りの楽団も、そろいの衣装を身に着けていた。
 誰かが叫んだ。
「セニカ様はまだかっ」
その年のセニカは、ソルティコでも評判の美女が演じることになっていた。
「『セニカの献身』は後の方だよ。『大樹の使命』がまだ来てないから」
と誰かが答えた。
 ひときわ大きな歓声が上がった。
「次は『導かれしネルセン』だ!」
――ネルセン……?
 一人の少年が、思わず顔を上げた。
「見たいか、グレイグ?」
 のちにデルカダールの英雄とたたえられるグレイグは、この年十三歳。デルカダール王の命により、ソルティコ騎士団団長ジエーゴの弟子として修行するためにソルティコ入りした当日だった。
「あの、俺は」
グレイグをデルカダールから連れてきた騎士たちは、にっと笑った。
「遠慮するな。ほら!」
その騎士は、グレイグを自分の馬の鞍の上に引き上げてくれた。
 山車がやってきた。戦士ネルセンが命の大樹の御使いに導かれて勇者の危機を救いに行く場面だった。
「ネルセン役は?」
後ろのほうで、誰かが尋ねていた。
「去年と同じだよ。武器屋の親父だ」
背が高く筋骨たくましい武器屋の主人はなかなか立派な戦士に見えた。見物人は大歓声でネルセンを迎えた。
「人気者だな、ネルセンさまは」
「……はい」
 戦士ネルセンは勇者ローシュを助けて邪神討伐の功を上げ、その後バンデルフォン王国を建国した。その由緒ある王国は、数年前魔物に襲われて滅亡した。グレイグは、その生き残りだった。
 観客が動き出した。
「山車の勢ぞろいだ!」
「見に行こうぜ!」
 このページェントのクライマックスは、山車がソルティコ大橋のそばの広場へ到着する時だった。広場を埋める観客とソルティコ領主の前で、それまでポーズだけだった役者たちが動きだし、山車の上でその場面が演じられるのだ。
 すでに『ウラノスとローシュの盟約』が始まっていた。楽団が音楽で盛り上げ、もともと韻文でできているセリフを役者たちが歌い上げる。
「我ら~志を同じくする永遠の友として~共に邪悪の神を打倒することを~今ここに誓わん」
盟約の山車が出番を終えて下がると、『導かれしネルセン』の山車が正面へ来た。
 舞台上手に命の大樹の御使いがいた。頭に若葉の冠を載せ、古代風の白いうすものを身につけた、十歳くらいの童子の姿をしている。片手でネルセンを手招きしているようなポーズだった。
「速く来たれ、戦士よ~、汝の勇者、死地にあれば~」
御使いは静止ポーズから身をひねり、舞台下手にいる戦士ネルセンに向かって朗々と歌い始めた。御使い役は子供にしては力強い、よく通る声をしていた。
 ネルセンを演じる武器屋の主人は深いバリトン、御使いの童子はソプラノ、二人の声がきれいに響いた。
「今年の御使い役は、あ~、そういうことか」
「さすがだねぇ」
「母上譲りだな」
見物の客たちは何か納得していた。
 グレイグはただ、神話の場面に見とれていた。戦士ネルセンを招く御使いは、濃い緑の背景からくっきりと浮きあがって見えた。卵型のほの白い顔、額にかかる黒髪、半眼閉じた大きな目の、幼いながら艶やかな少女だった。少女の身に着けている柔らかな薄い白布は、腕は上腕の半ば、足は太もものあたりまでなので、手足はむきだしに近い。折れそうなほど華奢な身体だが、同時に指先までぴんと張りつめていた。
 御使いのソプラノと戦士のバリトンの二重唱で場面が終わると、広場を埋める観衆から盛大な拍手が送られた。
「はは、珍しいな。ジエーゴさまが笑っておいでだ」
騎士たちがにやにやしている。グレイグは首を伸ばした。観衆のなかに貴賓席があった。その中央にいるのは、背の高い、鷲鼻に口ひげの貴族だった。
――あの方が、ジエーゴさま。
ジエーゴは席から立ちあがって拍手をしていた。
「よくお顔を拝んでおけ。おまえのお師匠様だ」
と先輩騎士たちが言った。
 それはグレイグにとってのソルティコ初日だった。豊かな南国の都市の華々しいページェント、市街を埋める人の波、にぎやかな楽の音、色鮮やかな山車の列、むせ返る熱気、貴賓席の名士や貴婦人、堂々たるジエーゴ……そして、まだ中性的なほっそりした身体と、それにそぐわぬほど妖艶な顔立ちをした命の大樹の御使いこそ、ソルティコの第一印象だった。