背水の覚悟 5.玉座で待つ者

 命の大樹の根はやおら輝きを増し、視界はまっ白な光に染め上げられた。その光輝が薄れたとき、そこはデルカダール城の屋内庭園のままだった。が、庭園の石組みの壁に明るい太陽光が当たり梢の影ができている。井戸も壺も樽もきちんと整えられていた。
 庭園の中の大木の下に、二人の少年がいた。チュニックの上に一般兵のつける簡単な胸当て、肩当てを装備し、木で作った剣を持っている。一人は薄い金の髪を首の後ろで結んだ少年、もう一人は紫の髪の前髪を一筋額に垂らした少年だった。
「こいっ!ホメロス!」
紫の髪の少年が木剣を上段に構えて挑発した。
「やぁっ!」
金髪の少年……幼いホメロスは子供らしい高い声で気合を発して頭上から撃ちかかった。紫髪の少年は落ち着いて攻撃を受け止めた。
「ハァッ!」
鍔元へ押し込んでくる剣を払い、間髪入れずに胴をたたいた。ホメロスはその勢いで飛ばされ、草地の上に転がった。
 明るい琥珀色の瞳を不満そうにひそめてホメロスは上半身を起こした。
「ちっ。相変わらずの馬鹿力だな……グレイグ」
小さなグレイグは手を伸ばしてホメロスを助け起こした。ホメロスは痛そうに腰をさすった。
 グレイグは呆然としていた。幼い自分と、同じくらい幼少のホメロスがそこにいた。手を伸ばしかけたが、触れることはできなかった。
 命の大樹の根は、グレイグの思い出に残る情景を次々と繰り広げた。少年のグレイグとホメロスは、ホメロスの私室で悪戯の相談をしていた。
「しかしな、どうやって見るんだ?王の私室なんて魔法でも使えなきゃ入れやしないぞ?」
悪戯の相談をしかける悪童は、腕を組んでいた。
 もう一人の悪童は手にした書物を閉じて抱えた。
「誰にも言うなよ。この前俺はひとりのつまみ食い犯を見つけた。誰だったと思う?」
まだ高い子供の声、桜色の唇、細い金の前髪が白皙の額に散っていた。のちの美貌の智将の兆しをすでに見せる愛らしい少年のホメロスに、今のグレイグは胸がしめつけられるような気がした。
 秘密めかした口調に合わせて小さなホメロスの口元がにやりとした。少年のグレイグが首をかしげると、ホメロスは声を潜めた。
「我が王だよ。食器棚の裏から出てきてケーキをひとくちパクッと、さ。あれは王に私室につながっているはずだ」
グレイグは呆気にとられ、それから背をそらして笑い声をあげた。
「ハハハハ!そういうことか!近頃お腹がだらしないって王妃様にしかられていたもんな!」
ホメロスはこぶしを前に突き出した。
「今晩、台所に集合だ。いいな?」
「おうっ」
と答えてグレイグはこぶしを突き合わせた。

 いきなり視界が白く輝いた。唐突に大樹の記憶は途切れた。
「……そうだ、長らく忘れていた。台所に王の私室へ続く抜け道がある。しかしこの現象はいったい……」
 イレブンはまだ、そこにいた。右手で左手をつかみ大樹の根を見つめていた。イレブンが振り向いた。
「……わからない。命の大樹は確かに落ちたのに」
もう一度イレブンは左手で大樹の根に触れ、そっと撫でた。今度は過去の思い出は蘇っては来なかった。
「ありがとう」
静かにつぶやいてから、イレブンは振り向いた。
「台所は?」
「城の北側にある食堂の奥だ」
とグレイグは言った。自分が素直にそう言えたことに、少し驚いていた。
「行こう、イレブン」

 食堂もその奥の厨房もやはりひどく荒らされていた。だが、グレイグは記憶をたどって問題の食器棚へたどりついた。
 天地いっぱいの大きさのある重厚な食器棚に半信半疑のまま手をかけると、意外なほど軽く棚は動いた。背後の壁にはアーチ形の入り口があり、そのすぐ先にひと一人分の幅の階段が見えた。
「これが王の部屋へ続く抜け道?」
とイレブンが尋ねた。
「いや、俺はこの道を通ってはいないのだ。……あの時は俺が衛兵に見つかって、そもそも抜け道を見つけることはできなかった」
とグレイグはつぶやいた。
「王に叱られて城中のヨロイを磨かさたよ。ホメロスは怒ってな。とっくみあいの大ゲンカだ……。あの頃は悪さばかりして王をこまらせていたものだ……だが、そうだ。楽しかった。ふたりでデルカダールの未来をになうのだと心から信じていた」
グレイグは湧き上がる思い出を噛みしめた。
「今でもしきりに思うのだ。ホメロスが、戻ってきてくれたら、と。あいつがそばにいないだけで、これほど頼りない気がするとは」
「ホメロスがいなくても、あなたはあなただ」
傍らのイレブンが、そうつぶやいた。冷静なその口調についグレイグはすがりたくなった。
「そうなのだろうか。俺は、自分が何か間違いをしているような気がしてしかたがない」
「ぼくも、自分の行く道が正しいかどうかなんて知らない。正しいから進むのじゃなくて、行きたいから進むんです」
「正解はないのか」
イレブンは天井を仰いだ。
「あるのかもしれない。でも、その道が正解かどうかを知る方法は、その道をたどってみることだけです」
 グレイグは目を見開いてイレブンを見ていた。最後の砦でイレブンを見つけたときは、焦燥と殺意でこの若者はギラギラしていた。だが今のイレブンは玻璃の杯に汲みあげた雪融け水のように澄んで透明だった。
グレイグはイレブンに向き直った。
「……イレブン。今までの非礼を詫びる。すまなかった」
イレブンは自力で迷いをはらった。グレイグはそれを認めようと思った。
「この先に誰が待ちうけていようとも俺は戦う。もう二度と俺の剣が道に迷わぬようチカラを貸してくれ」
イレブンは、表情をやわらげてうなずいた。初めて彼の笑顔を見たと思った。マルティナ姫をはじめ仲間たちがなぜこの若者についていったのか、その理由をグレイグは悟った。
「イレブン、お前は不思議な男だな。お前と一緒にいると勇気がわいてくる。暗闇を照らす太陽のようだ」
グレイグは己に言い聞かせ、言葉にして口に出した。
「玉座の間で待ちうけている者が誰であろうと、俺はもう迷わない。常闇を生む魔物を倒し、最後の砦に太陽を取り戻す。俺のやるべきことはそれだけだ」

 扉の前のモンスターを倒してグレイグたちは玉座の間の扉を開いた。あふれんばかりの光に照らされ強大な君主と忠臣たちの集う賑やかな宮廷だったその場所は、静寂の薄闇と化していた。豪華な織り模様のじゅうたんが、かえって虚しく見えた。
 襲撃の際に壁と天井の一部が壊されたために、玉座の間はふきさらしだった。かがり火は消え、人影はなく、不気味な静けさに満ちていた。
 夜空の雲が吹き払われ、満月の光が射しこんだ。ぱち、ぱち、とバカにしたような拍手の音がした。グレイグは危険を察知して目を細めた。デルカダール王の玉座に誰かが座っていた。
「お元気そうでなにより。我が友、そして哀れな悪魔の子よ」
からかうように投げつけられた挨拶を聞いて、グレイグはぞくりとした。それは間違いなく、ホメロスだった。
 グレイグは目を見張った。ホメロスは変貌していた。黒地に暗赤色とくすんだ金の、黒い羽毛を飾った大きな襟、スラッシュ入りのパッフドスリーブの派手な服を身に着け、そのくせ少しも楽しくなさそうな、血の通わない目でこちらを見下ろしていた。
「ホメロス……やはりお前かっ!!」
大剣を刺突の形に構え、グレイグは走った。玉座に至る寸前で跳びあがり、頭上から重い刃をホメロスへたたきつけた。
 紫の霞を残してホメロスは消えた。
「フフフ、その短気直した方がいいな。まわりが見えていないから、お前はいつもから回る」
無傷のホメロスが真後ろにいた。振り向きざまグレイグは剣を一閃させた。またホメロスが消えた。姿は見えないが、この場にいるはず。グレイグは低い声でかつての友をなじった。
「なぜ魔王に魂を売った!?共にデルカダールを守る……そう誓ったはずだ!ホメロスッ!!」
広い玉座の間の壁際に腕を組んだホメロスが現れ、嘲笑った。
「……なぜ?なぜと問うのか?お前が?私に……?ははは。はは……はっ……ハハハハハハハハ」
「何がおかしい!!」
一瞬でホメロスはグレイグの前に移動した。
「では私もお前に問おう」
次の瞬間移動は、グレイグの真後ろだった。手にした杖をホメロスは振り下ろし、グレイグは間一髪で刃を合わせた。
「なぜ……お前は私の前を歩こうとする?」
――手を握って助け起こした華奢な少年兵のホメロス。
兵士見習の少年だったころ、木剣を打ち合わせてグレイグが押し切れなかったことはなかった。が、今、ホメロスの杖に、グレイグの剣は打ち負けしそうだった。
 再びホメロスが消え、反対側に現れた。グレイグは剣を交えたが、速さも重さも十分な攻撃に押されていた。
――デルカダールの盾を描いた本を熱心に学んでいたホメロス。
 ホメロスは嫌悪をこめて目を細めた。
「なぜ……お前ばかりがチカラを得る?なぜだっ……グレイグ!!」
ホメロスは玉座の上まで一瞬で跳び、そこから体を回転させて一撃を放った。グレイグはその杖に剣で合わせたが、あまりの勢いに吹き飛ばされた。
「俺ばかりがチカラ?何を言っているのだ、ホメロス!」
呼吸のたびに痛みが走る。骨が折れたらしかった。
「俺は、お前を友と思って……」
「私はもうお前の後ろは歩かない!」
ホメロスは大声で遮った。
「愛も夢も光もそして友も……。この世界ではなんの意味も持たない」
とホメロスは言い放った。満月の下、壊れた玉座の前に立ち、異様に派手だが奇妙にシックな衣装で手のひらを天に向けて嘯くその姿は、生まれ持った美貌、長身ともあいまって、悪の王子のように不吉、かつ、優美だった。
「あるべきはチカラ。世界を統べる……闇のチカラだけ」
ホメロスは掌中に魔力を集中した。紫に燃えあがる炎が生まれた。グレイグには、床にうずくまったままホメロスを見上げることしかできなかった。
 いきなりグレイグの視界をイレブンの背がふさいだ。剣を構え、グレイグをかばい、イレブンはホメロスと向き合った。
「あるべきは光。世界を照らす、命の光だけ」
静かに宣言してイレブンは剣をつきつけた。ホメロスは顔をのけぞらせて笑った。
「ひどい雑魚ぶりをさらしておいて、よく私の前に顔を出せるな、元勇者よ。あのとき、この私に手も足も出せなかったくせに」
ホメロスの挑発を、イレブンは投げ返した。
「おまえの力など、たかが知れてる。ぼく一人殺せなかったくせに」
黙れ!とホメロスが叫んだ。
「私のチカラを認めてくださるあの方こそが真の王!王の歩みをジャマする者は私が許さぬ!」
紫に燃える魔法弾が、まっすぐイレブンに向かってきた。
 グレイグはイレブンの前に飛び出して両手を広げた。自分の胸で強烈な力が弾けた。立っていられずにグレイグは膝をついた。大剣を杖にグレイグは顔を上げた。
「故郷を奪われ、民を失い……友は去った。英雄と呼ばれて戦い続けても俺に守れるものなど何もないと思っていた。だが……まだだ」
グレイグの目は背後のイレブンを見ていた。
「まだ俺にも守るべきものがある。イレブンが世界を救う勇者なら……俺は勇者を守る盾となろう」
グレイグはかつての友に指を突き付けた。
「ホメロスいや、魔王の手の者よ。その命、私がもらいうける」
ホメロスは一瞬でグレイグの前に立った。額に落ちた金髪を指でつまんで払い、赤い瞳をわずかにすがめた。
「できるかな?我が友よ」
問答無用とばかりにグレイグが斬りかかった。が、またホメロスが消えた。
「さぁお遊びはここまでだ」
グレイグとイレブンは周囲を見回した。
 ホメロスは玉座の上にいた。その姿がゆっくり宙へ浮き上がった。獣毛に覆われた手足、背に負った蝙蝠のような羽。人間の姿の時よりも一回り逞しい肉体の胸には魔石シルバーオーブを埋め込んでいる。満月を背景に、ついに魔軍司令ホメロスは魔獣と化した姿を現した。
「グレイグ!私はお前の先を歩く。お前はここで朽ち果てるのだ!!フフフ……ハハ……ハハハハ……!」
魔獣ホメロスは翼を羽ばたかせて夜空へ消えた。肩を落としてグレイグはつぶやいた。
「……ホメロス」
「ンフフ。ンフフフフ。ンフフフフフフ」
二人とも総身の毛が逆立つ思いがした。古いかび臭い墓穴の奥で鼻歌を歌うようなその声は、心底不吉だった。
 あたりに漂う紫の霞がデルカダール王の玉座へ吸い込まれていく。イレブンとグレイグは身構えた。玉座の後ろから、姿を現した者がいた。
「ンフフフフ。我は魔王さまのチカラを受けし六軍王がひとり……屍騎軍王ゾルデ」
玉座のある基壇から階段を降りてくるのは、紫のマントと甲冑の残骸を身にまとう骸骨だった。骸となってもグレイグよりも背が高い。生前はさぞ大男だったのだろうが、あるべき肉はとっくに腐れ落ち、骨だけとなっている。妙に綺麗にそろった歯と髑髏の中で紫色に輝く一つ眼だけが生き生きとしていた。
「闇を愛し、光を憎む者。我は思う……。そなたらはいやしい光を望む者たち。そしてなにより哀れな者たち……。魔王さまは闇をお望みだ。我の命つきるまで清浄なる常闇は消えぬ……なればこの地に光は戻らぬ」
歌うようにゾルデは言った。グレイグは戦慄を覚えた。
――こいつ、常闇を生む魔物か!
ゾルデは片手に持った剣ごと、腕を大きく回して胸に当て、うやうやしく一礼した。
「ンフフフフフフ。さぁ、けがれた光を癒しましょうぞ」
ゾルデの片目が輝いた。左右の手に持っているのは片手剣のはずだが、分厚い刃はまるで大剣のようだった。その二剣を体の前で重ね、一気に振り上げた。
「オーブのチカラを、解き放ちましょうぞ!パープルシャドウ!!」
ゾルデの傍らに、ゾルデそっくりの姿をした分身が現れた。
 イレブンは左右の手にゾンビバスターとゾンビキラーを構えた。グレイグも剣を構えた。
「ぼくにまかせてください」
とイレブンがささやいた。
「あなたはダメージを負ってる。少し休んで」
ゾルデが斬りかかってきた。その刃をイレブンは跳ね上げ、相手が引くのに合わせて間合いを詰め、ハヤブサ切りを見舞った。
 ゾンビ師団が攻めてきた時の戦場では共に戦ったし、ここまで潜入するまでに互いの戦略も見てきている。グレイグもイレブンの実力は知っていた。グレイグは無言でうなずき、後衛から援護を始めた。
「スクルト、スクルト、ベホイミ」
ゾルデとその分身は執拗だった。ンフ、ンフフ、とゾルデが不快な笑い声をあげた。ゾルデと分身が、突然青い光に包まれた。
「……ゾーン!」
イレブンが低くつぶやいた。グレイグとイレブンは目を合わせた。
「モンスター連携が来る」
「防御するしかないか」
 グレイグは歯がゆい思いをしていた。盾と鎧の防御力を頼みに敵陣へ突出して剣をふるうのがグレイグの戦い方だった。勇者だけを最前列に放置しているのは歯がゆく、そして危うかった。
 さきほどホメロスにたたきつけられた部位を動かしてみた。鈍い違和感はあるが、最初に感じた激痛はなくなっていた。よし、とグレイグはつぶやいた。
「イレブン、聞いてくれ!」
予感に駆られてグレイグはささやいた。
「向こうの決め技を浴びればこちらもゾーンに入る。そのときに……」
守りを捨てて攻撃力をあげる、と言った時、イレブンは目を見開いた。
「それは危険なのでは」
「これは気持ちの問題なのだ。勝たなければ命がない、そういう状況を作ることで勝機をつかむ。背水の陣を敷くというやつだ」
くす、とイレブンは笑った。
「あなたがそんな無鉄砲な戦い方をするとは知らなかった。教科書通りのがちがちかと思ったら」
グレイグの口元が自然にほころんだ。
「買いかぶりだ。俺はもともと、こういう男だ。……来るぞ」
ゾルデと分身が、それぞれ二刀を天に振り上げ、一気に振り下ろした。冥界の一撃が襲ってきた。
「つぅ……」
かなり削られた、と思った瞬間、グレイグの全身が熱くなり、同時に寒気がした。隣を見ると、イレブンも青い光を身にまとわせていた。
 二人は視線を合わせ、うなずきあった。一斉に気合を入れた。目の前のゾルデとその影がグレイグに殺到してきた。攻撃力が真紅の球状にふくれあがって爆発した。
――見よ、我らの、背水の覚悟。
 ゾルデの分身が動いた。両刀を握ったまま力を溜め、魔力として放った。
「ルカナン……」
グレイグは短く笑い声をあげて剣を振りおろした。
「守備力などもともとザルだ。いくらでも下げるがいい!」
イレブンはゾンビバスターで何度もギガブレイクを繰り出した。その威力は絶大だった。分身は剣を取り落として雲散霧消した。
 あははっとイレブンが声を上げた。
「削り尽くすよ!」
「おう!」
次の分身を召喚する前にゾルデを倒す。二人の目的は一致していた。
 イレブンの剣がゾルデの胴を横一文字に薙いだ。ゾルデは衝撃に揺れ、左右の剣をふりあげようとして、硬直した。跳び下がってイレブンは身構えた。
 ゾルデの手から、剣が落ちた。
「ンフフフ……フフ」
骨だけのゾルデの身体から紫の光がいく筋となく飛び出した。ゾルデは両手で頭を抱えて懊悩した。
「おお私の愛しき闇が……ああ、けが……らわしい。光が……あふれ……」
やがてこらえきれなくなったように、ゾルデは霧と化して消えた。
 ゾルデの消えた玉座の前に、ころんと転がり落ちたものがあった。それは髑髏の中で輝いて見えた球体、ゾルデの片目のように見えたものだった。イレブンは近寄り、拾い上げた。パープルオーブだった。
 グレイグは顔を上げた。気が付くと、デルカダール城の上に渦巻いていた紫色の奇怪な霞が一か所に固っていた。それは次の瞬間、消えうせた。
 壊れた天井を縁取りにして、空が見えた。夜明け前の菫色の空で、東の端は美しい真珠色になっていた。常闇が消えたのだとグレイグは悟った。
「……夜明けが来たか」
いつのまにか、夜が明けかけていた。常闇の消えたデルカダール城は、風だけが吹きぬける静かな廃墟となっていた。
「イシの村、最後の砦は大丈夫かな」
イレブンはグレイグに向き直った。
「リレミトします。結局ひと晩かかってしまった。早く戻らないと」
そうだな、と言いかけてグレイグは思い出した。
「待ってくれ。俺は王よりひとつ命令をいただいているのだ。王の私室で確かめることがある」
 グレイグたちは入ってきた経路を逆にたどって玉座の間から王の部屋へ戻った。最初入ったときよりも明るくなっていた。荒らされてはいるが上品な内装の部屋の隅に大きな書棚が二つ並んで置かれている。グレイグは指定された本を棚から探した。
 “近代デルカダール秘伝三十六計”の隣に、その手書きの写本があった。
「これか……」
空の章、192頁。グレイグは頁をめくった。
「それは何の本ですか?」
とイレブンが尋ねた。
「王の所蔵だが、いにしえの賢人が書いたものの写本のようだ。武術について、技について……」
空の章は戦士の心得について説く章のようだった。『傷つき、迷える者たちへ』という言葉でそのページは始まっていた。
「……」
王の部屋の窓からほのかな光が羊皮紙のページを照らしていた。
「グレイグ?」
 グレイグは本を広げたままイレブンに手渡した。不思議そうな顔でイレブンはその本を手に取った。
「『傷つき、迷える者たちへ。敗北とは傷つき倒れることではありません。そうした時に自分を見失った時のことを言うのです』」
イレブンは一度読むのを止めて、まじまじとページに見入った。
 自分を敗北者だと思っていた勇者と英雄は、無言で脳裏にその言葉を響かせた。
「『心を強く持ちなさい。あせらずにもう一度、じっくりと自分の使命と力量を考え直してみなさい。自分にできることはいくつもない』」
「……耳が痛い」
とグレイグはつぶやいた。
「『一人一人が持てる最善の力を尽くす時、たとえ状況が絶望の淵でも、必ずや勝利への光明が見えるでしょう……!』」
「ぼくのために、書かれたみたいだ」
イレブンのほほに、新しい涙が筋になって流れ落ちた。こぶしでその涙をイレブンがぬぐい去るまで、グレイグは待った。
「帰ろう。砦へ」
空はくっきりと明るくなっていた。最後の砦の上に太陽が昇り、デルカダールの喜びの歌が響き渡るまで、あともう少しだった。