ビーストモード 1.人狼潜入

 世界はすでに滅びていた。しかし、太陽は昇ってきた。
 かつて天空に浮遊する命の大樹が受けた曙光は、世界の中央の山脈の合間から広大なクレイモラン湾へと一筋の光となって到達し、冷たく厳しい情景を照らし出した。
 北国の空は透き通るような青に染まっていた。水平線から下は流氷のために目もくらむような純白だった。
 真っ白なクレイモラン湾に注ぎ込む大きな川があった。河口からさかのぼってかなり上流まで、川も白くなっている。その流れの一か所に鮮やかな色彩があった。赤と金の華麗な外輪船、シルビア号だった。
「シルビアの姐さん」
その朝、整備士アリスは静かにオーナーに告げた。
「閉じ込められました」
旅芸人シルビアは、甲板に立ち尽くしていた。
「なんてことかしら……川が凍るなんて!」
 船室から次々と乗客が甲板へ出てきた。
「シルビア?船が停まってるよ?」
まだ十六歳の少年勇者イレブンに、シルビアは目の前の光景を指した。
「海から流れてきた氷よ。船が動かないの」
イレブンの祖父、ロウは太陽光を手で遮った。
「なんと、流氷が集まって固まってしまったのじゃな」
その後ろからがっちりした大男が姿を現した。
「固まった氷なら、その上を歩いてあそこまで助けを求めにいかれんか?なんなら俺が行こう」
デルカダールの英雄グレイグが指すのは、川岸だった。
「厳しいと思うわ」
とシルビアが言った。
「向こう岸まで完全に氷が固まっているかどうかわからないのよ。うっかり穴を開けちゃったら、ものすごく冷たい水で溺れることになるわ。体重が多ければ多いほど危険よ」
「むう」
とグレイグはうなった。
 最後の人物はだまって凍結した川を見つめていた。つんつんした青い髪の若者だった。どことなくとまどったようすであたりの情景を眺めていた。
「カミュ、寒くない?」
 カミュはあわてて振り返り、何か言おうとして自分の喉をおさえた。
「ああ、無理しなくていいよ。君は寒いの平気だったよね。暑さには弱かったけど」
イレブンはそう言った。カミュはうなずき、どこか恥ずかし気に視線をそらせ、片手で身に着けている服の襟元を力なくつかんだ。
 シルビアは振り返って笑いかけた。
「しかたないわ。幸い天気はいいみたいだし、溶けるのを待ちましょ」
ロウものんびりとうなずいた。
「先にネルセンの宿屋へ行ってみるべきじゃったかのう。ま、後知恵じゃな」
イレブンはちょっと申し訳ない気がした。本当は、ソルティコでシルビアが再加入したあと、アリスの操る船でバンデルフォンへ向かう予定だった。が、なぜか外海へ出たいと強く思い、パーティにもそう言ってソルッチャ運河を通ろうと主張したのはイレブンだった。その結果、カミュと再会することができたのだが。
 ふと思いついて、イレブンは言ってみた。
「行かれる場所もずいぶん少なくなってしまったけど、ルーラならどこか少しは暖かいところまで行かれないかな?」
う~ん、とシルビアは考え込んだ。
「この状態でシルビア号ごとルーラすると船体が痛みそうだわ」
シルビアのそばでアリスがぎくっとしてこちらを見た。アリスはたぶん、持ち主であるシルビアよりもこの、同じ名前の船を大事にしていた。
「ルーラは水や食料が尽きたときの最後の手段にしましょう。ま、なんとかなるわ。だいぶ買い込んであるの」
シルビアはまったくへこたれていなかった。
 のんびりとロウが言い出した。
「甲板で日光浴ができそうじゃな。水着のお姉さんがいればもっとよかったんじゃがのう。ああ、姫や~、もどってきておくれ~」
「ロウちゃんたら、ないものねだりはダメよん」
命の大樹が落ちて以来、姫ことマルティナ、そしてラムダの姉妹はいまだパーティに合流していなかった。
 そのときだった。
「……、……!」
かすれた声でカミュが何か言った。
「どうしたの?」
あの大異変からこちら、イレブンは新たにデルカダールのグレイグを仲間にした。そしてロウ、シルビアを取り戻した。さらに、旅の初めから一緒だった大切な相棒、カミュにも出会えたのだが、肝心のカミュはイレブンのことも今までの旅のこともすべて忘れていた。
「……イレブンさん、あっちから、人が」
いまだにカミュからさん付けで呼ばれることにイレブンは慣れない。脳裏には同じ声が“よっ、相棒!”と屈託なく呼びかけるのが聞こえているというのに。どうやら今のカミュは、自分のことを十三歳か十四歳ぐらいだと思っているのでは、とシルビアは言った。
「あの子、自分が完全に声変わりしたことをわかってないのよ」
話しにくいらしく、カミュは常に遠慮がちで、口数も少なかった。
 シルビアは片手を額にかざして純白の海を見回していたが、振り向いてアリスに話しかけた。
「ホント、誰か氷の上をこっちに来るわ。縄梯子をおろしてあげて?」
しばらくすると三人の男と一人の女が縄梯子をつたってシルビア号の甲板へ上がってきた。
「船長さんはどちらで?」
白髪頭のやせた男が尋ねた。かなりの年配のようだった。
「船長っていうか、オーナーはアタシよ?」
シルビアの派手な道化衣装や気障な身振り見て男は目を丸くしたが、訥々と話し始めた。
「夕べいきなり川が流氷でふさがりまして、わしらは立ち往生しております。わしはクレイモランの商人でアーロと言います」
アーロは顔色が悪く、体調もよくなさそうだった。
「乗ってきた船が壊れてしまいました。困っていたところ、大きな船がここにいるのを見て、おっかなびっくり氷の上を歩いて来ました。そのうちに同じ船を目指してきたご婦人や他の方々と合流しまして……」
アーロはせき込んだがイレブンにはアーロの言いたいことがわかった。クレイモラン湾の両脇はぎりぎりまで崖がせり出しているが、王都は湾岸の中心にある。そのため、シケスピア雪原から接近するのでないかぎり、船がなければ王都へ近寄れない構造になっていた。
「俺はボー」
と二人目の男が言った。身長は高くないが、体つきはがっちりしている。頑固そうな角張った顎をしていた。
「このあたりの漁師だ。釣り船は動かなくなっちまったが」
ボーの口調はぶっきらぼうだが、困り果てているようだった。
「川岸で俺たち、やばいものを見たんだ。川が凍ったせいで獣がこの辺にうろついているらしい。動物の死骸が転がってた。それも半分以上食われていた」
三人目の男は拝むような手つきをした。
「あんたらは命の大樹のお導きだ。いや、もう、ねえけど。あっしはクラースと呼んでくだせえ」
クラースは筋骨隆々とした体つきと、柔らかな物腰を兼ね備えた男だった。
「あっしはクレイモランの港で荷揚げをやってる正直者で、ちょっと仲間に会いに村へ出かけた帰りなんでさ。そうしたらいきなり寒くなるし、飢えた獣がうろついてるし」
「この船で氷をつっきってクレイモランまでつれていってもらえませんでしょうか」
アーロが言うと、シルビアはため息をついた。
「ごめんなさいね。アタシのお船ちゃんは波と遊ぶようにできているの。切り裂いていくのは苦手なのよ」
「そうですか……」
やって来た男たちはため気をついた。
「せめて」
と言い出したのは、アーロたちといっしょに来た中年女だった。黒に赤紫の服を重ねその上に金の縁取りの紫のマントという、占い師によくある姿だった。紺色の長めの髪を額の上で左右に分け、首の後ろでゆるい三つ編みにしていた。若くはないが目元にまだ色香を残した年増女だった。
「今夜だけでもここへ匿ってもらえませんか。あの、食べ物も分けていただければ……クレイモランへ戻ったらお代は払いますから」
「お代はいいから。氷が溶けるまでシルビア号にお招きするわ」
気前よくシルビアは言った。
「こういうときは助け合いですもん」
女は深々とお辞儀をした。
「助かります。あたしはディーサ、クレイモランのお城前の広場で占い師をやっている女です。ちょっとばかり薬草の知識もかじってるんですが、こっちのアーロさんという方、このままじゃいけません。あまった寝床があったら、その」
「アラ、大変!」
シルビアが動き出した。
「お部屋ならたくさんあるの。こっちへ来て?何かあったかいものを作りましょうね」
甲板の上に歓声が沸き上がった。

 シルビア号の乗組員とアーロたち新来の客はいっしょにテーブルを囲んで和やかに食事をした。アーロはほっとしたのか、食後に寝床へ行き、パーティ手持ちの薬草と毒消し草を飲んですぐに寝てしまった。
 残った客たちは、クレイモランの冬は厳しいこと、しかし海まで凍ることはめったにないこと等々、口々に話してくれた。地元民の情報をイレブンたちは熱心に聞いていた。カミュだけは少し離れた席に座ったまま、どこかぼんやりしていた。
「十年くらい前にもあったんだが、一度凍り付くと川の氷は四、五日は動かねえな」
とボーは断言した。
「それくらいの食糧はありやすがね」
とアリスは言った。
「それよりも、流氷の上を血に飢えた獣がうろうろってのが気になりやす」
「そのことなんじゃが」
とロウが言い出した。
「獣というが、具体的には何じゃな?」
ボーたちは顔を見合わせた。
「獣っていやあ、狼だよ。知らねえか?モンスターさえ怖がる、冬の森の王」
「こんな厳しい冬は獲物も少なくなるらしくて、川が凍るといつもの縄張りを離れて狩りの遠征をやるんでさあ」
クラースは詳しいらしかった。
「たいていの群れは父親狼と母親狼のペアとその子供たちなんで。十頭ぐらいでひとつの群れをつくります。狼の仔は、子供のうちは群れに守られて可愛がられます。仔の中には成長すると群れを離れて一匹狼になり、新しい群れをつくるのもいます」
「獣とはいえ、まるで人間のようだな」
和んだのか、グレイグがそう言って微笑んだ。
「いや、でかい旦那、いいことばかりじゃねえんで。あいつら人間並みに賢くて、しかも体力がありますから、どこまでも獲物を追いかけまわして食らうんですよ。荒業好む賢き神って別名があるくらいで、狩り上手なんでさ」
と、クラースが嘆いた。
「じゃが、しょせん獣じゃ。よもや縄梯子はのぼれんじゃろう?」
食事と一緒にでた酒で顔が赤くなったロウがそう言って、ふぉっふぉっと笑った。
「まあ、普通の狼ならそうでさあ」
「普通ならな」
クラースとボーが一緒にそう答えた。思わずイレブンは聞いた。
「普通じゃない狼がいるの?」
二人はそろって妙な顔になった。顔にやばい、と書いてあるようだった。
「およしなさいよ」
ディーサだった。
「すいませんね、坊ちゃん」
厚めの唇がほころんだ。
「伝説なんですけどね。人の姿に化けられる狼がいるんですってさ」
クラースは、むしろ誇らしげに言った。
「そういうのを人狼とか魔狼とかって呼びます。一番魔力が強いのは青い毛皮の魔狼だって、あ、いや、ほんとにただの伝説でさ」
「そうなんですか。モンスターには詳しいつもりなんだけど、ぼくも聞いたことないな」
いやん、とシルビアが片手をほほにあてた。
「人に化けたら、縄梯子でシルビア号にのぼれちゃうじゃないの」
 そのとき、何も言わずにアリスが立ち上がった。
「どこ行くの?」
「縄梯子、ちゃんと回収したか確認してきます。ノミだらけのこ汚ねぇ狼なんぞにこのシルビア号へ爪の先でも踏み込まれちゃ、たまりゃしねえ」
語気強めにそう言ってアリスは大股に出て行った。相変わらず、アリスはシルビア号を自分の娘のようにかわいがっているようだった。

 北の王国の真冬の夜は、大気も凍てつく厳しさだった。
 深夜、ひそかに目覚める者がいた。人ならぬ人外のモノは、そっと部屋から抜け出してシルビア号の甲板に向かい、梯子をつたって船外へ姿を消した。
 夜明け前、それは戻ってきた。甲板の上を、何かひきずっていく。わざわざ甲板の上に運んで来てから、おもむろに喉笛を噛み裂いた。
 熱い血が噴き上がり、湯気がたちのぼった。飢えを満たし、誇りを満たし、人外は全身を震わせ、夜明けの月に向かって無音の遠吠えを放った。

 冷たい北海の寝床のなかで、熱砂の月夜の夢をイレブンは見ていた。
「グゥオオォォゥ」
敵意も露わにワイバーンドッグがうなった。
 魔蟲の住処に近い砂漠に棲むこのモンスターを、満月の今夜倒してくれ、とサマディー城のそばで出会った絵描きから頼まれたのである。
「……行くよ!」
イレブンとセーニャは自分の魔力を噴き上がらせ、燃える球体にまとめた。
 月の見える砂丘の上でカミュは待ち構えていた。この連携技“ビーストモード”は三人にとって初めて使う技だった。カミュはやや顔をこわばらせ、こめかみに冷汗を浮かせていたが、左手の四指を動かしてイレブンたちを促した。
――寄こせ!
イレブンはセーニャとまなざしを交わし、手を高く掲げ、二人同時に力を解き放った。
 金色のコアをもつ透明の魔法球は勢いよく宙を進み、待ち受けるカミュの身体に突撃し、その内部へ吸い込まれた。
カミュは衝撃を受けて一度前かがみになり、だらんと双腕を垂らした。とたんに彼の全身が金色の新たなオーラに包まれた。両手を掲げ、背を反らせ、カミュは吼えた。
「アオオオーーーンンンッ」
それはまぎれもなく遠吠えだった。火柱のようにオーラは真上へ向かってほとばしり、背後の満月の表面に奇怪な紋章を焼き付けた。
 イレブンとセーニャは息を呑んで満月を見上げた。その紋章は、尖った耳と言い長い口と言い、狼の顔をデフォルメしたように見えた。
 月光を照り返して何かが夜空に煌めく。それはみるみるうちに大きくなり、イレブンたちの前に着地した。
――カミュ!
皮肉っぽい目つきと醒めた口調の若い盗賊はどこへ行ったのか。そこにいるのは、人の姿をした狼だった。瞳のない赤一色の目を怒らせて、カミュは咆哮を放った。
「ガアアァァァァッ!!」
ヒトの声ではない、もっと原始的で直感的な威嚇だった。
――カミュ、君は……。
ちがう、ちがうっとイレブンは夢の中で抗った。そのとき、悲鳴が聞こえた。

 翌日の朝は悲鳴で始まった。
「なんだこりゃああああーーー!」
アリスの声だった。イレブンたちは一斉に船室から飛び出した。見ると昨日来た人々もあわてて甲板へ上がってきたようだった。
「アリスちゃん、どうしたの!?」
 整備士のアリスはこちらに背を向けて甲板に座り込んでいた。シルビアの呼びかけに、彼はゆっくりふりむいた。指を広げたまま両手を肩の高さにあげている。その十指にべっとりと血がついていた。
「えっ、それ、血じゃありませんか!」
アリスを見てディーサは悲鳴を上げた。
 ピンク色のマスクごしにアリスはくぐもった声を上げた。
「誰かが、こんなものを、こんなとこへ……」
それは鹿のような動物だった。もしかしたら仔鹿かもしれない。その身体は大き目の犬ほどで骨格は華奢だった。が、喉から胸から腹からすべて切り裂かれて死んでいた。おそらくアリスはその死体を動かそうとして、骸の下の血だまりに両手を突っ込んでしまったらしい。指についた血が体にかかり、アリスは血まみれだった。
「誰でぃ、いったい誰が、こんな、ひでぇ!」
アリスはクラースたちをにらみつけていた。
「よくも、シルビア号に……」
ボーはむっとした顔になった。
「知るかよ!これは人間のしわざじゃねえ。マーキングだ」
「なんだってぇ?」
クラースが説明した。
「狼の群れは、自分たちの縄張りに印をつけるんでさ。尿をつけておくこともあるが、自分が殺した獲物の血をつけていくこともあるんで」
おい、とグレイグが言った。
「では、シルビア号がどこかの群れの縄張りになったということか?」
「そう考えている狼がいるんでさあ」
「ふざけんじゃねえ!」
とアリスが激高した。
「アリスちゃん、落ち着いて。とりあえず手を洗っていらっしゃい」
ぱん、とシルビアは手をたたいた。
「さあ、みんな、ここは寒いわ。船室へ戻りましょう。朝ご飯のあとで、お話し合いをしましょうね」
言葉は柔らかく、物腰も優雅だったが、イレブンにはわかった。
――シルビア、すごく怒ってる。