使徒、走る

 塔の上からは草が枯れて狐色になった草原を見渡すことができた。その彼方の海、巨大な湾、溶岩の荒野、熱帯雨林、霧のたちこめる森まで、ガラス越しに一望することができた。
「佳い景色ですね」
 純粋に眺望を愛でるように、その男はつぶやいた。
「気に入ったのなら何よりだ。だいぶ長い事、おそらく一生ここで過ごすことになるだろうからな」
 紫がかった肌の悪魔は、にやにやしていた。
 その囚人は、超然としていた。二段に分けてカールさせた水色の髪も、銀縁眼鏡も、メディックカラーの白い服とケープも、どこか世間離れした雰囲気がある。が、悪魔にとってはヒトという愚かな種族の一人でしかなかった。
「一生、ですって?」
 初めて囚人が視線を合わせた。
「すぐに私の同行者たちが迎えに来てくれますよ」
「そんなことを信じているのか?」
 悪魔は笑い出しそうになった。
「だってあなた方悪魔族の長が約束したでしょう。彼らが時間内にゴールへ到達したら私を自由にする、と」
 それはこの愚かな種族をもてあそぶための、悪魔独特のゲームだった。約束や契約を持ちかけ、相手に履行させ、失敗に持ち込み、絶望でゆがむその顔を眺めながら自分を恨めよと嘲笑う、それが悪魔の快楽だった。
 だからこの男が悪魔族を挑発した時、一族の長はこの男を即座に抹殺せず、交換条件を承諾した。
 くっくっと悪魔は笑った。
「もちろんだ。アバン=デ=ジニュアール三世、我々悪魔は、約束を守る。同行してきた者たちは皆おまえの弟子だそうだな?」
「『アバン』でけっこう。彼らが私を師として扱ってくれているのは事実です」
「我々は彼らにリレーを提案した。長いコースを五つの区間に区切り、一人の走者が一区間を走るのだ」
「つまりうちの弟子たちは、区間中は複数人で協力することができないというわけですね。実にあなた方らしい。走者が区間を選択する自由は?」
「ない。ひとつの区間を走り切ると、次の区間のスタートが可能となる」
 アバンは鼻で笑った。
「つまり、一人でも失敗すれば、リレー全体がそこで止まる。ふむ、結局あなた方には、あの子たちを失敗させるためのチャンスが五回はあるということですか」
「おまえの弟子たちについて話してくれないか?」
「弱点を明かせと?」
「心外なことだな。我々は公平な勝負を期待しているのだ」
 わざとらしく憤慨して見せながら、悪魔は嬉しくてたまらなかった。
「しかし、師匠のおまえが弟子たちをかばうのか。それほどに頼りない、劣弱な者たちだということか?」
「とんでもない。いいでしょう。では、簡単に」
――ひっかかった。
悪魔は舌なめずりをした。
「鎧と槍を装備した若者はヒュンケル。先の大戦で重傷を負い、二度と戦えない、と言われたこともありました。今は回復途上です。武闘着を身につけた少女はマァムと言います。容姿、性格、そして武闘家としての資質に恵まれた子ですが、優しすぎるのが唯一の欠点です。緑の服の上に黒い法衣をつけた少年はポップ。魔法力と呪文操作だけなら誰にも負けないでしょう。青い服の男の子はダイ。最年少ですが、おそらく最強です。誰とでも仲良くなれるような天真爛漫な性格をもっています。淡い茶髪の少女はレオナ姫です。パプニカ王国の正統な後継者で、れっきとした姫君、私の弟子というより縁あって知り合った深窓の令嬢です。失礼のないようにしてください」

 ルールの説明をしよう、と、悪魔は言った。
 紫がかった皮膚とねじれた角を持つ悪魔は、高い岩の上からかぎ爪で彼方を指した。
「見ろ、この荒野を」
 二人の眼下に広がるのは、不毛の大地だった。焼け焦げて黒くなった岩塊の間を、溶岩流が流れていく。硫黄の臭いが充満し、大気の中に汚いススが舞い散っていた。
 ススを透かして見る空は薄暗く濁っていた。その中央に、火口から煙を噴く黒い独立峰がそびえ立ち、その岩肌が時々暗赤色の筋状に輝いた。果てしない溶岩はそこから流れてきているようだった。
「黒い火山の周辺に溶岩の荒野は広がっている。荒野の果ては白い霧の森だ。おまえはここから出発し、白霧の森を目指せ。そこにこの区間のゴールがある」
 悪魔の指さす方向へどれほど目を凝らしても、森は見えなかった。
「全コースを五つの区間に分割し、おまえたちは一人で一区間を走りぬく。その間、魔法力は使っていいが、ルーラ系だけは禁止だ。すなわち、ルーラ、トベルーラ、リリルーラ」
 ヒュンケルはじっと荒野に視線を投げたままだった。
「また、アイテムは使っていいが、キメラの翼と魔法の筒は禁止。ただし、馬や鳥類、魔獣等に乗ったりすることは認める。徒歩でなくてもかまわない。一定時間内に自力で区間を走破すればそれでいい」
「一定時間とは」
 冷静にヒュンケルは聞き返した。
「五つの区間を合わせて、今、天頂にある太陽が一度沈み、再び上って頂きに達するまで」
 初めてヒュンケルがこちらを見た。
「では、オレがこの区間を早く走り切れば、あとの四区間で使える時間が増えることになる」
「その通りだ。そして定められた時間内におまえたちのアンカーがゴールに到達したならば、アバンを解放する。約束しよう」
「その約束を、おまえたちが守る理由は?」
 哀れで愚かなヒトの子で愉快に遊ぶためだ、と思ったが、気取った口調で悪魔は答えた。
「我々の一族の長がそう約束した。我々は元々、約束を重んじるのだ」
 ぐっと悪魔はヒュンケルに向かって顔を近づけた。
「だが、怖気づいたのならば、リタイアしてもよいぞ」
にやにやと悪魔は笑っていた。
「長はともかく、オレはもともと、ヒトの子がこの溶岩区間を走れるとは思っていなかったのだ。ヒトには耐えがたい暑さ、一滴の水さえない不毛の地だ。常に地震が起こり、そのたびにマグマが流れ、火山弾が降り注ぐ。もしおまえが」
「黙れ」
 鋭い手裏剣が、悪魔ののどスレスレにつきつけられていた。
 悪魔は声を呑みこんだ。
 ヒュンケルは、無言で手裏剣を鎧へ戻した。そのまま悪魔のいる方を見ようともせず、高い岩の崖っぷちへ歩み寄った。
 荒野の一部からドォンと音を立ててマグマが噴出し、新たな溶岩流を作った。水蒸気が激しく吹き上げた。
「カウントしろ」
 悪魔は歯を食いしばった。が、約束を重んじる、と言った手前、何もできなかった。
「……溶岩区間、第一走者、ヒュンケル。3、2、1、スタート!」
 鎧と槍を装備したまま、ヒュンケルは高い岩から飛び降りた。
「きさま死ぬ気か!」
 悪魔は崖っぷちから下をのぞきこんだ。
 ヒュンケルは着地と同時に灼熱の荒野を蹴って走りだした。赤黒い大地の上を、白銀の流星が駆けていく。
 悪魔は混乱していた。暑くはないのか?この暑熱の中を重い鎧をつけたまま全力疾走するあいつは、本当にヒトなのか?
「……少しは動けるようだが、しょせんヒトの子」
 大地が鳴動し、前方で新たなマグマ噴出が起こった。ヒュンケルめがけて牛ほどの大きさの噴石が襲い掛かった。
 うれしそうに悪魔は笑った。
「ほら見ろ」
 その顔が、笑顔のまま凍り付いた。
 手にした槍を一閃しただけで、噴石が真っ二つになった。その上をヒュンケルは軽々と跳び越えた。
 自分の行く手に転がり込む岩も足元を襲う溶岩流も、ヒュンケルはものともしない。岩を踏み台代わりに流れをこえ、一直線に白霧の森を目指していた。
「……バケモノか」
 悪魔は首を振った。もしヒュンケルが溶岩区間を走りぬいたとしても、次は森林区間が待っている。第二走者は誰か、その弱点は何か、悪魔はあらかじめ知っていた。
「走れ、走れ。だがゴールにはいかせんぞ」
と悪魔はつぶやいた。

 特別な区間を用意した、と悪魔は言った。
 この森は第一区間のゴールにあたるため、ヒュンケルもそこにいた。
 マァムは片手のひらを兄弟子のほほにそっと当てた。
「さあ、少し休んで」
 ヒュンケルはマァムの手首をやさしくとらえて、顔から放した。
「オレはいい。おまえのほうが心配だ」
「大丈夫よ、私」
 マァムは振り向いて、悪魔と向かい合った。
「悪魔なんかに負けない」
 悪魔は腕を組み、きざな仕草で首を振った。
「悪魔がおまえを負かすのではないよ。おまえがおまえに負けるのさ。見るがいい」
 悪魔が示したのは、白い霧におおわれた森だった。
「このあたりの森は、魔界で珍重される生き物『魔界黄金虫』の棲み処だ。甲虫の一種で外羽の光沢と色合いが好まれるので、羽化するとすぐに殺され、羽をはがれるのが宿命だ」
 マァムは眉をひそめた。
「だからやつらは、人の来ない森に卵を産み付ける。大量に生むことで、一匹でも二匹でも助かる子を増やそうというわけだ。この森には、十三年に一度孵化する特別な、そして特に美しい魔界コガネが大量に卵を産んだ」
 マァムはとまどった顔になった。
「卵ですって?どこにあるの?」
「さあねえ」
 マァムはうつむき、片手で口元をおおった。
「孵化するまで十三年。そんな虫がネイル村にもいるわ。セミ?セミだったら、卵は地面の中に産むはず」
 マァムは屈みこんで、指で地面を探った。その指に、真珠のような粒がくっついてきた。
 ひっひっと悪魔は笑った。
「ああ、見つけてしまったな」
 きっとマァムは悪魔をにらんだ。
「知ってたのね?知ってて、それでこの卵の森を区間にしたのね?」
「さあ、その卵の上を踏んで行け。卵はこの森全体の地表に密集している。十年以上孵化を待ち続けた卵をその足で踏みつぶして走るがいい」
 小さな卵を森の下草へ戻し、心を鎮めるかのようにマァムは深く息を吐いた。
「ずいぶん、おしゃべりなのね」
 マァムは森の梢を見上げ、目測で高さを測っていた。
「あなたのルールによれば、必ずしも走る必要はないのでは?」
「ほう?きみのゴールは森の向こう側にある海だ。どうやってこの森を抜けるつもりだ、お嬢さん?」
 マァムの紅唇には、笑みさえうかんでいた。
「知りたければカウントして」
「……森林区間、第二走者、マァム。3、2、1、スタート!」
 つつっとマァムは後に下がり、助走をつけて飛び出した。ブーツの靴底が地を蹴り、思い切って高く跳んだ。上へ伸ばした両手が森の樹の太い枝にかかった。
「行ってきます!」
 そのまま隣の樹へ飛び移った。枝を選んで両手でつかまり、ぶら下がり、思い切りよくスィングしてさらに奥へ。
 次の枝をつかんだのは、手ではなく、足だった。膝裏を軸に回転、手で次の枝をつかんで枝上へ飛び上がった。
 腕の力だけで上体を引き上げ、膝を折りたたんだまま枝の上に跳びあがり、着地と同時に次の目標へ向かう。
 一連の動作はあぶなげがなく、まるでサーカスのスターが空中ブランコを演じるような華やかさすらあった。
 樹々の密生した森であったことが幸いして、魔界コガネの卵のある地面には一歩も触れず、マァムは飛ぶように進んでいた。
「猿か、あの女……」
 赤い武闘着が梢の間からちらちらする、かと思うと、あっという間に見えなくなってしまった。
 背後から冷静な声がした。
「おまえの負けだ」
 ヒュンケルは、疲れ切っていたが、わずかに微笑んでいた。
「まだだっ」
と悪魔は叫んだ。
「マァムが森林区間を抜けても、次は無理だ。第三走者が誰なのか、もうわかっている。そいつにとって一番苦手な道を用意したからな!」

 フェアに行こう、と悪魔は言った。
「あんたらの言うフェアってなんだよ」
とポップはせせら笑った。
「魔王軍の正々堂々と魔界のフェアくらい信じられないものはねえぜっ。なーっ、マァム?」
 マァムは立つこともできないほど疲れ切っていたが、くすくす笑っていた。
「だいたいさあ、先生を捕まえておれたちに言う事きかせようなんざ、考えが甘い!そもそも、あの先生がだぜ?わざと捕まったんだ。なんか腹に一物あるに決まってんだろうが!それをまんまと勝負にもちこまれるなんざ、魔界ってのもたいがい甘ちゃんじゃねえの?」
「ポップ、話し方がマトリフ小父さんに似てきたわよ?」
「……いいかげん、私に話をさせろ」
 咳払いして悪魔は道のかなたを指した。
「君のために用意したのは、全コース中最も長く、すなわち体力の必要な、湾岸区間だ。見たまえ。区間はすべてこの湾の内部に沿った小道だ。非常に狭く、どうかすると波に洗われるようなところを通っている」
 ポップは真顔になった。
「で、潮が満ちてくると、道が水没するってわけか」
 白昼に始まったリレーは、第一、第二区間を終えてそろそろ日暮れが近づいていた。
「そのとおり。小道をはさんで海の反対側は、切り立った崖だ。時間をかけてよじのぼり、崖上を通って区間を制覇するならそれでもいい」
 悪魔は満足感いっぱいに、日没間近の水平線を眺めた。
「そうすると、君が崖上を歩くころはもう夜だ。崖の路は途中で途切れた箇所も多い、とあらかじめ情報を渡しておこう。どうだね、フェアだろう?」
 ポップは肩をすくめた。
「情報は礼を言っとく。ま、フェアのフの字くらいかな。おっと、ルールの確認をさせてくれ。魔法力は使っていいんだな?」
「ただしルーラ系は禁止だ」
「そこは了解した。ほかは何やってもいいってわけか」
「そうだ。何をやってもいい。だが、崖下の狭い小道を必死で走っても、日が暮れて暗くなり、海の水は高さをあげてくる。その恐怖を、どんな魔法でどう解決する気だね?」
 なるほどねえ、とポップはつぶやいた。
「ゴールはどこだって?」
「この湾のちょうど反対側だ」
「なあ、カウント前ならトベルーラで上がってもいいか?日が落ちてゴールが見えなくなる前に場所を確認したい」
「そのていどならいいだろう」
 にやぁとポップが笑った。
「ありがとさん!」
 その体がふわりと浮いた。ポップは上空で片手をかざして湾の向こうを眺め、すぐに降りてきた。
「あった、あった。なんか森みたいなところだよな?」
「そうだ。おお、湾を横断して泳いでいく、という手段は許可するぞ。君にそれだけの体力があるならば挑戦するがいい」
「そいつはごめんこうむるぜ」
「ならば、どうする?」
 ポップの表情が変わった。どこかおちゃらけた言動や姿勢までが変化し、一本ぴしりと筋が通るのがわかった。
「これぞ師匠直伝。大魔道士式ショートカット!」
 湾に広がる海に向かって、ポップは両手をかざした。その両手が魔法力を帯びてほの白く輝いた。
「ゴールまでの直線コースさえわかれば、ワケねえんだよ!バギクロス!」
 激しい風がまっすぐ海を割り裂いた。暴風の中、青緑の海水はめくれあがり、反り返り、海底に一筋の道をつくった。
 むりやりに裂かれた大量の海水が伸びきって、元に戻ろうと動き出す瞬間、もうひとつの呪文が展開した。
「マヒャド!」
 その瞬間すべての音が、すべての色彩が消滅した。流体であっても重くゆるぎのない海そのものが、青い氷の中に閉じ込められていた。
「ま、こんなもんか。カウントよろしく~」
 悪魔は歯ぎしりしていた。
「……湾岸区間、第三走者、ポップ。3、2、1、スタート」
 とことことポップは歩き出し、振り返った。
「じゃー、いってくら。マァム、ゴールで会おうぜ」
「溶けちゃうから、走った方がいいわよ?」
「あ~、めんど」
とは言いながら、けっこうまじめにポップは走り出した。
「また負けね?あなた」
「ふざけるな」
そう返すのが、悪魔にはせいいっぱいだった。
――まだ取り返せる。第四走者があの子供である限り。

 君は最強だそうだね、と悪魔は言った。
 リレーは日没過ぎに一度中断した。夜が明けて、今は早朝の太陽が森を照らしている。森は湿度が高く、じっとりと汗ばむような気候だった。
 ダイのそばの草地では、二時間ほど走り続けたポップが大の字になって転がっていた。ダイはポップのそばから立ち上がり、背の高い悪魔を見上げた。
「チカラだけならね」
 思わず悪魔は笑った。
「ほう、それを理解しているわけか。ごらん、君のために用意した区間だ。神殿区間。走者はこの入り口を入り、反対側のゴールまで行くこと」
 悪魔が指さしているのは、熱帯雨林の中で朽ち果てた廃墟だった。
「短すぎる」
とダイはつぶやいた。
「それに簡単すぎる」
「これは失礼!君をあなどっていたよ」
 悪魔にとって久しぶりに腹の底から笑いがわきあがってきた。
「この神殿の中は、建てられた当初から複雑な三次元迷路なのだ。パーティ最強のダイ君、頭の回転のほうはどうかな?」
 片手で魔力を送ると、廃墟の扉が音もなく左右へ開いた。
 真っ暗に見えたが壊れた天井から光が射しこみ、彫刻のある太い柱が立ち並ぶ壮大な広間を浮かび上がらせた。その中でうごめくものがあった。
「何だろう、あれ」
「ああ、この神殿をねぐらにしている連中だろうな。この土地ではカエル、トカゲ、蛇なんかが少し大型でね。ああいう生き物が怖いかね?」
 挑発を無視してダイはじっと観察していた。
「牛くらいの大きさ、トカゲタイプ、身体の模様……あれ、サラマンダーだ」
 サラマンダーは黒い体表に炎のような文様のあるトカゲに似た生き物だった。そしてこの地方のサラマンダーは、縄張り意識が強く、攻撃的だった。
「サラマンダーなら、火竜の一種」
「それがどうした」
 ダイが動き出した。ためらいもなく広間の敷石を踏んで神殿の入り口を越えた。とたんに殺気が押し寄せた。
 大広間の廃墟の薄闇に、黄色い眼がいくつも開いた。砂まみれの石材の上を素早く移動する音がいくつも重なった。
 眼をぎらつかせたサラマンダーの群れがわずかな時間でダイを取り囲んでいた。
 ダイは広間の中央で立ち止まり、静かに命じた。
「おれを、通して」
 天上の石材のクラックを通して、スポットライトのように太陽光が廃墟の大広間へ降り注いだ。ダイを取り巻いていたサラマンダーのうち最前列にいたものたちが、そろって目を伏せた。火竜の群れはそのまま後ずさった。うやうやしいような動作だった。
 廃墟の中に、ダイのための道が開かれていた。その道の両側でサラマンダーたちは四肢を折り、頭を垂れた。
 悪魔は愕然としていた。
「こんな、バカな」
 草地から笑い声がした。ポップはゆっくり身を起こした。
「バカはおめーだ。よりによって、ダイの前にドラゴンの群れを出すなんてよ。よく見ろ、あれが、竜の騎士に対する礼儀だ」
 ダイが振り向いた。
「おれはたぶん、迷路を突破するほど頭よくないよ。でも、サラマンダーたちはおれを友達だと思ってくれるみたいだから大丈夫。カウントしていいよ」
「くそっ!神殿区間、第四走者、ダイ。3、2、1、スタート」
 ダイはポップに笑顔を見せ、手を振った。
「行ってくるね」
そう言うと、サラマンダーたちにささやいた。
「おれを出口まで連れていって」
 背後にドラゴンの群れを従えて、ゆっくりダイの背が動き出し、やがて神殿の闇の中へ消えていった。
「あんた、もう後がないぜ?」
 振り向いてみなくても、ポップがにやにやしているのがわかった。
 憤然と悪魔は言った。
「我々を見くびってもらっては困る。こういう時に押し通すからこそ、我々は悪魔なのだ」
 最後の走者には絶体絶命の区間が用意されていることを悪魔は知っていた。

 リタイアをおすすめします、と悪魔は言った。
 王女レオナは、繊細な薄布のドレスと厚地のマントに華奢な身を包んでいた。その背後をパプニカの警備兵の一団が守っていた。
「ふざけないで。あたしだって、アバンの使徒よ」
 にやにや笑いながら悪魔は両手を広げた。
「どうぞ御覧あれ。これが第五走者の走る、草原区間です」
 なだらかな起伏のある草地がどこまでも続いている。枯れて狐色になった草が、大人が立てば膝から下が見えなくなるような高さにまで生い茂っていた。
「草原の向こうにある塔がこの区間の、そしてコース全体のゴール。ですがここは凶悪なモンスターの狩場でもあります。すぐに追いつかれますよ」
 レオナは警備兵たちに目配せした。兵士たちは、背後から馬を二頭、よく似た栗毛を引き出してきた。
「なるほど、替え馬も使って馬で走り抜けるおつもりですか。馬ねえ……」
 ねっとりとした口調でしゃべりながら、悪魔は足元から小石を拾い上げ草原へほうり込んだ。小石は草の中へ落ち、転がった。
 ギャッとわめく声がして、一瞬空が暗くなった。何かがレオナたちを飛び越えてその場に躍り込んできた。虎よりも大型の漆黒の猫族だった。
「魔界の黒豹、シャドウパンサー」
 レオナ姫の周りで警備の兵士たちが一斉に緊張した。
「見ての通り、たいそう足が速く、耳もいいのです。この草原区間を何者かが走り抜けようとすれば、たちまち十数頭のシャドウパンサーが追いすがってくるでしょう」
 アンカーがレオナ姫と知った時から、悪魔はこの区間を用意していた。
「あきらめるもんですか!」
 ふふふ、と悪魔は笑い声をあげた。
「しかし姫には戦士ほどの戦闘力もなく、武闘家のような身軽さもなく、魔法使いの魔力もなく、もとより勇者でもない。どうやってこの区間を突破されるおつもりか?」
 レオナの後ろで、兵士たちが険悪な顔で槍を握り締めていた。
 レオナは息を吸い込んだ。
「みんな、用意してちょうだい!」
 兵士たちが動き出し、布で覆われた大きなものを引き出してきた。レオナは布に片手をかけ、一気に取り払った。
 大きな車輪二つがシンプルな車体を支えるチャリオットが現れた。
「ベンガーナ式戦車」
 意気揚々とレオナは言った。
「ベンガーナから最新型を買い受けて、ランカークスへ持ち込んでチューンナップしたわ!」
 兵士たちは先ほどの馬をせっせと車体につなぎ、間もなく二頭立てのチャリオットが完成した。
「車体は重量を三分の二に減らして、その代わり車輪を強化。ごつごつ動いてもびくともしないわ。サスペンションはこのために特別あつらえというフルチューンよ。出力も十分、カール騎士団の専属牧場で育てた名馬ですからね」
 ふっふっふとレオナは笑った。
「あたしは勇者じゃない。戦闘力も身軽さも魔力もない。だから、あたしはあたしの力でこの区間を制覇するわ」
 悪魔は怒りと驚きで舌がもつれかけた。
「なんだと……?」
「聞きたいの?なら、教えてあげる」
 姫は片手でマントを脱ぎ指で肩にひっかけ、胸を張った。
「金の力よ!」
 レオナ~と後ろにいたダイが呼びかけた。
「ちょっと悪役っぽい……」
「ほっといて」
「ほんとのことを言えばいいじゃないか。レオナのことを信じてベンガーナの王様は戦車を輸出してくれたんだし、ロン・ベルクさんたちだって改造の工夫を凝らしてくれたんだって。おれ、レオナの力は、“人望”だと思うよ」
 レオナは戦車に乗り込み、手綱を取った。その耳たぶがちょっと赤くなっていた。
「それからあたし、運転は得意なの。あなたの黒猫とあたしのチャリオット、どっちが早いか競争しましょう。カウントをどうぞ」
 シャドウパンサーは油断なく頭を下げ黄色い目を光らせて、こちらのようすをうかがっていた。
 悪魔は心中に念じた。もしかしたら、一頭ぐらいチャリオットに追い付いて姫を襲うやつがいるかもしれない、もしかしたら!
「草原区間、最終走者、レオナ。3、2、1、スタート」
 だが飛び出した瞬間の姫の横顔を見て、悪魔は絶望した。興奮でレオナの頬は紅潮し、目が嬉しそうに輝いている。それはどう見ても、恐れを知らないスピード狂の顔だった。

 私の勝ちです、とアバンは言った。
 日が降り注ぐサンルームの中、アバンは丸テーブルの前に座っていた。この部屋は塔の最上階にある。冷涼な気候でも陽光は室内をほんのりと温めていた。
 彩色タイルで飾った床の上にアバンのシルエットが落ちている。その影が、きざな仕草で何かつまみあげた。
 テーブルの上には香り高いお茶、その横には銀のチェス盤。アバンはチェスの問題を解いていたようだった。
「ポーンは、ここですね」
 眼鏡の奥の目は、さきほどの宣言の事など忘れたかのようにチェス盤に集中している。白の駒はシルバー、黒の駒はブラックコーティング。アバンは黒のビショップをつまみ、斜めに動かして先ほどのポーンを取った。満足そうにアバンは微笑み、ガラス窓から遠くを眺めた。
 塔の上からは狐色になった草原が見渡せる。そのかなたの海、巨大な湾、溶岩の荒野、熱帯雨林、霧のたちこめる森まで、一望することができた。
「いい景色だ……あなた方悪魔は、契約に縛られる。違いますか」
 悪魔は舌打ちした。
「そう言う相手、いわば話の通じる相手は、私にとってたいへん御しやすいのです」
 悪魔は、かっとした。
「悪魔をだましたのか!さも、おまえの弟子たちの弱点を明かすようなことを言っておいて、やつらはまんまと区間を走り切ったぞ!」
 アバンは涼しい顔だった。
「あなた方が弟子たちのことを話せというから話したまで。誤解したのはそちらです」
「誤解だと!?最初の区間のあの戦士はなんだ!?二度と戦えないと言われた身体というのはウソだったのか!」
 嬉しそうにアバンは答えた。
「ヒュンケルの事ですか?あの子は最初の弟子でしてね。ちょっと反抗期入りましたが、自慢の一番弟子です。“戦えないと言われた”だけですからね。もともと体力が半端じゃないんですよ」
「次の区間の、あの女!気が優しすぎるのが唯一の欠点とか抜かすから!」
「マァムは強くて優しい女の子ですよ。あの子がお嫁に行く時が来たら、私はボロッボロに泣く自信があります!今回は武闘家としての修行を適切に生かすこともできたようだ。あなたの罠にひっかかりませんでしたね」
 くっくっくと言わんばかりの笑顔を、憎々しげに悪魔はにらんだ。
「だがあの魔法使いに関しては絶対にフェイクだ!海底を二時間で走破する魔法使いがどこにいる!」
「魔法使いの体力を侮ったのはあなたでしょ?ポップは若いんですよ。そして魔法力を臨機応変に使うのは師匠ゆずりです。ああ、帰ったらマトリフに話してあげよう」
「まだあるぞっ。お前の言う天真爛漫な少年は、竜をだまして道案内をさせた!」
 アバンは片手で口元をおおって失笑した。
「あれは楽しかったですねえ!ダイ君は、本当は迷路ぐらい突破できたと思いますよ、勘が鋭いんですから。あの子は私のために近道をしてくれただけです。竜については道案内を禁止しなかったそちらの落ち度ですよ」
 悪魔は音を立てて丸テーブルの上に手を突いた。
「じゃあ最後のアレはなんだ!オレの知っている“深窓の姫君”じゃない!」
「いやいやいや!あれは私も驚きました。チャリオットでドリフトかますのを見たのは初めてです。いやあ、逸材というのはいるもんですな」
 はあ、とアバンはつぶやき、祈るように両手の指を組んで顎の高さに上げ、キラキラする目で虚空を見上げた。
「出会えてよかった。うちの子たちは、みんなかわいい……」
「おお、呪われろ!きさまも、きさまの弟子たちも!」
 アバンの目がこちらを見た。やおら立ち上がり、チェス盤の上から黒のクイーンを取って悪魔の目の前に置いた。
「チェックメイト。私の勝ちです。今から勝者の権利を行使します」
 さきほどまでのキラキラとはまったく異なる表情でアバンは言った。
「これからあの子たちがこの塔へ来るまでの時間、あなたには私の弟子自慢をたっぷり聞いてもらいます。異論は許しません」
 わかりましたね、と悪魔の笑みをたたえてアバンは言った。

了(2024年11月3~6日 ネット上のお祝い「#いい1番弟子の日」~「#いい5番弟子の日」、「#いい使徒と先生の日」のために書いた6本のSSをつなげ、加筆したもの。)